ブローチ


引き出しをそっと開けて、今日もそのブローチを取り出してみる。

それは、何よりも大切な私の宝物。
手の上に乗せて頬擦りをすると、ひんやりとした金属の温度が伝わってきた。
「ママ……」
柔らかなハンカチで包んで、また引き出しの中に戻す。 
本当のパパが死んでしまったのは、私が生まれてすぐだったという。

新しい父が来たのは、私が5つの時だった。
ママが新しい父と仲良くするのは、なんとなくイヤだったけれど、

すぐに3人で暮らすことにも慣れた。
なのに……

私が小学生になった夏、ママが突然死んでしまった。
居眠り運転のトラックが歩道に突っ込み、ママはその下敷きになった。
泣きじゃくる私の隣で、父はとても冷静だった。

そして、お葬式の後でたくさんお酒を飲んで暴れた父を、

親戚のおじさんたちがどこかに連れて行ったのを覚えている。
ママが居なくなった後、父はたくさんお酒を飲むと、

私のことをぶつようになった。
そういえば、父がお酒を飲んでいるのを見たのは、

お葬式の日が初めてだった。

父がお酒を飲み始めると、ママはいつも、私に、

隣のおばさんのところに居るように言っていたから。
何度か父にぶたれた後、体についた蒼い痕を見て、

ママにも同じ痕がたくさんあったことを思い出した。

そして、ママも父にあんなふうにぶたれていたのだと知った。
お酒を飲んでいないときの父は優しくて、

宿題を見てくれることもあった。

父はどうしてお酒を飲むのだろう?
今は父がお酒を飲み始めても、外に連れ出してくれる

親戚のおじさん達はいないし、隣のおばさんもどこかに引っ越してしまった。

父がお酒を飲み始めると、私は自分の体を抱くようにして

身を縮めているしかなかった。
父にたくさんぶたれた後、私はいつもこの引き出しを開けて、

大切なブローチを取り出す。

ブローチの冷たさは、腫れ上がった体の痛みを癒してくれた。

まるで、ママの手で優しく撫でられているように……
綺麗な模様のついたブローチの蓋を開けると、中は時計になっていた。

毎朝きちんとねじを巻けば、心臓の鼓動のように規則正しい時を刻んだ。

ママは余所行きの服を着ると、このブローチを胸につけて、

いつも私に見せてくれた。

「あなたのパパの形見なのよ」

そう言うママの目もブローチも、キラキラしていて綺麗だった。
事故に遭ってしまったあの日、

ママはどうしてブローチをしていなかったのだろう?
ママの思い出に浸りながら、ブローチを頬に当てていると、

突然部屋の襖が開いた。

そこにはもう眠っていると思っていた父と、

知らないおじさんが立っていた。

私は慌ててブローチをしまおうとして、手から取り落としてしまった。
それを見た知らないおじさんは、一瞬息を飲んだ顔をして、

落ちたブローチに手を伸ばした。
「これは……」

***********

「麻美さん、お食事の時間です」
「はーい、すぐに行きます」
病院いる父から届いた手紙をしまいながら、ドアの向こうに返事をした。
父のアルコール依存症は、入院治療を始めたことで、

少しづづ回復しているらしい。

あんな父だったけれど、不思議とそれほど憎しみは無い。

父もきっと、苦悩していたはずだから。
父にぶたれた体の痛みを、ママのブローチで癒していたあの夜、

私の前に現れたおじさんは、本当のパパのお兄さんだった。
パパは、莫大な財産のある家に生まれた息子で、

結婚を反対されて、ママと駆け落ちしたのだという。

パパのお父さんが亡くなってから、伯父さんたちはずっと、

パパのことを探していたそうだ。
今、私は、子供のできなかった伯父さん夫婦の養女に迎えられ、

信じられないくらい大きな家で、お手伝いさん達や犬たちと一緒に暮らしている。
逃げ場のない狭いアパートで、父の振り上げた手に

怯えながら過ごしていた日が、遠い夢の中の出来事に思える。
あの夜、私を養女にしたいという伯父の話に激昂した父は、

台所から果物ナイフを持ち出し、伯父にその刃を向けた。

父が突き出したナイフを受け止めたのは、

伯父の手の中にあったママのブローチだった。
綺麗な蓋の模様は傷つき、針は二度と動かなくなったけれど、

伯父にも私にも怪我はなく、父はその場にへたり込んだ。
あのブローチの「いわく」について、

伯父から聞いたのは少し後になってからのこと。

綺麗だと思っていた蓋の模様は、実は特別な装飾文字で、

魔よけの呪文だったという。

代々この家の女性に大切にされていたというこのブローチは、

何度もこの家の女性達を救ったことがあるそうだ。
確かに、このブローチは、私のことを救ってくれた。
そして、罪を犯さずに済んだ、父のことをも救ったのだと思う。
けれど、ひとつだけ、どうしても諦め切れない思いが私の胸に残る。
もしも…・… もしも、あの日ママがブローチをつけて出かけていたら……
「麻美さん?」
お手伝いさんがもう一度ドアをノックした。
「あ、はい。今行きます」
私は、ママへの想いを振り切るようにドアを開け、

優しい養父母の待つ階下へと降りていった。


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コメント

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    まさか事故の日にママがブローチをしていなかったのは、娘に裕福な暮らしをさせるための予感が働いて…? んー、お金持ちの生活より、お母さんがいる暮らしのほうが子供は幸せだろうなあ。

  2. SECRET: 0
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    ママの・・・そのブローチが、娘を伯父に引き合わせえたような気もしました。
    ママが、あのとき、ブローチをつけて出かけていたら・・・。そうですね。
    そういう巡り合わせだったのでしょうか。
    最後は、ハッピーエンドでよかったです☆

  3. SECRET: 0
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    >カツオさん
    母親って、いつも、娘にだけはぜったいに幸せな生活を送ってほしいと願っていますものね。
    でも、たしかに、どんな生活であっても母親がいた方が幸せですよね。

  4. SECRET: 0
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    >Bilwanさん
    はい、運命……でしょうか。
    娘は優しい養父母とママの思いでを胸に素敵な女性に成長します。^^

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