2つに結んだ髪を揺らして、娘が何かを追いかけている。

丸い目をきらきらと輝かせ、夢中で見詰める視線の先には、
ひらひらと舞う小さな羽。

垣根の上に止まったその羽を掴もうと、
黒いスカートの裾を翻して飛び上がっている。

とうとう飛んでいってしまった蝶を名残惜しそうに見送ると、
ようやく思い出したように、僕のところへ戻ってきた。

「パパ、ちょうちょ、行っちゃった」

「ちょうちょもお家へ帰るんだよ、ゆみもそろそろ帰ろうか?」

「ゆみちゃんまだ遊ぶ」

僕の手を振り払いまた走っていく娘は、
最近、妻にとてもよく似てきた。

今は、抱きしめることさえ叶わない天国の妻に。

「ゆみ!パパひとりで帰っちゃうぞ」

慌てて飛んできた娘を抱き上げると、
袖をまくってむき出しになっていた腕がひんやりとした。

蝶々を見かける季節だというのに、夕方の風はまだ冷たい。

それは、僕の心に吹く風にどこか似ているようだと思った。

抱いて歩いているうちに、娘はうとうととし始めたようだ。
僕の腕の中でぬくもりを増していく、この愛しい娘の体を、
妻は、一度も抱くことなく逝ってしまった。

娘の誕生と妻の死を同時に知らされたあの日のことを、
僕は一生忘れられない。

命がけで生んだ娘を、その手に抱けなかった妻の代わりに、
僕はたくさん娘を抱いた。

あまりにいつでも抱いていたので、祖母や近所の人たちは、
抱き癖がつくなんて言ったけれど、そんなこと構わなかった。

娘がどこにも行ってしまわないよう、このままずっと抱いて過ごしたいと
何度思ったことだろう。

それでも歩けるようになった娘は、するりと僕の手から抜け出て、
自分の足で走り回るようになった。

あれから、4年。

毎月通っている丘の上のこの墓地にも、また春がやってきた。
穏やかな日差しの中で、蝶々を追いかける娘が、
妻にも見えているだろうか?

「ゆうこ…」

君と娘と3人で手を繋いで歩きたかったよ。

一瞬、妻の香りがしたような気がして振り返ると、
僕の肩の傍でさっきの蝶々が飛んでいた。

蝶々はひらひらと僕達の周りを一周すると、
寝息をたてる娘の頬にそっと止まった。

まるで、優しいキスのように。

「ママ…」

娘の寝言にハッとしたとき、蝶々はもう舞い上がっていた。

見る間に遠くなっていく蝶々は、僕達より先に角を曲がり……

娘を抱いたまま走り出した僕は、角を曲がりながら叫んでいた。

「ゆうこ!」

どんっ!!

左肩が人にぶつかった。

「すみません」

抱いている娘をかばってよろめいた体を立てなおし、
謝りながら顔を上げると、ぶつかった女性の胸に蝶がとまっていた。

思わず手を伸ばしそうになった時、
それが蝶のブローチであることに気付いた。

あの蝶々は、もう、いなくなっていた。

目を覚ました娘が、女性を見てにっこり笑った。

「こうちゃんのママ!」

「まあ、ゆみちゃん」

つられて微笑む女性の胸で光るブローチに、娘が手を伸ばそうとした。

「きれいなちょうちょ」

「パパ、このちょうちょほしい」

我侭を言い出した娘に、こうちゃんという男の子が言った。

「ゆみちゃん、ダメだよ!これはママのだいじなちょうちょなんだ。
死んじゃったパパがくれたちょうちょなんだよ」

「ゆみちゃん、あげられなくてごめんなさいね。」

そう言った後、女性は僕に向って、
「3年前に主人を失くしておりまして」
と控えめに言い足した。

「ゆみちゃんのお父さんですか?はじめまして、
保育園でご一緒している浩太の母です」

軽く会釈した女性から、ふわりと漂った花の香りは、
妻と同じ香りだった。

いつの間にか一緒に遊び始めている子供達を挟んで、
見詰め合ってしまった視線が外せなかった。

長い間忘れていた感情が胸に湧き上がってきたとき、
ほんの一瞬、ブローチの蝶が羽を動かしたような気がした。

「もう春よ」と僕に合図するように……。

 

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