立つ鳥跡を濁さず、よね……。

由佳里は乱雑に積み上げられた本を棚に納めながら、三年前の母の言葉を思い出していた。

「いい?三年間だけよ、三年経っても売れなかったら、その時はすぐに戻ってくるのよ。
言い訳は一切聞かないから、そのつもりで頑張りなさい」

三年なんて、本当にあっという間。

田舎とはいえ、地元では有名な美少女だった由佳里は、
冬休みに遊びに行った東京で、タレント事務所のスカウトマンから名刺を渡された。
卒業したら、ここに来てみないか、と。

怪しい事務所に決まっていると、両親は決めてかかったが、
あれこれと調べてみると、毎年大きなオーディションも催している、
そこそこの大きさの、ちゃんとしたタレント事務所だということが解った。

由佳里は隣町の大学に進学することが決まっていたが、
どうしてもこのチャンスに賭けてみたくなって、両親の説得を始めた。

ゴマすり、だんまり、泣き落としと、卒業までの一ヶ月あまり、
思いつく限りの方法を尽くした。

言い出したら聞かない上、何かに夢中になると他のものが見えなくなる由香里の性格を、
誰よりもよく知っていた母は、卒業式の前夜、仕方なく東京行きを許した。

「三年間だけよ」と念を押して。

当時真剣に付き合っていた恋人に別れを切り出すのは、身を千切られる思いだったけれど、
それよりももっと大きな希望が、由佳里の胸を膨らませていた。

そして、単身上京して、「タレント」になるためのレッスンを始めた。

田舎ではあれほど目をひいた美貌だったが、
美人の多い東京ではさほど目立つことがなかった。

由佳里は、中途半端な美貌などたいした武器にはならないことを知った。

だから、歌にもダンスにも力を注ぎ、演技のレッスンにも通った。

それでも、「デビュー」はなかなか決まらなかった。

そんな状況の中で、由佳里が自分の甘さを痛感したのは、
東京に来て2年目の夏、初めて全国ネットの番組への出演が決定し、
田舎の両親に連絡をした後だった。

番組で着るよう指示され、手渡された衣装を見て愕然とした。

それは、カエルの着ぐるみで、顔の部分だけが丸くくりぬかれていた。

数分にもみたないわずかな出演を終えた後、部屋でひとり涙した。

その後も歌手デビューは果たせなかったが、
テレビへの出演は少しずつ増えた。

約束の3年間まで残り少なくなったある日、由佳里に2時間ドラマの準主役の話が舞い込んだ。

立派なホテルで開かれた、打ち合わせの会食で、
由佳里は番組のスポンサーだというおじさんの隣に座らされた。

体をなめ回すようなねちっこい視線には辟易したが、これも仕事だと笑顔で耐えた。

デザートがテーブルに並んだ頃、プロダクションの担当者に呼ばれて、
この後仕事の詳細を説明するからここで待っているようにと、ホテルの部屋の鍵を渡された。

けれど、しばらくして部屋に来たのは、
あのねちっこい視線のおじさんたった一人きりで……

由佳里はその後の出来事など、もう、思い出したくもなかった。

2時間ドラマの準主役というのが、スターを夢みるバカな女を、
ここに連れてくるための餌だったことに気付いた時には、すでに夜が明けていた。

あれから一週間。

由佳里はレッスンを全て止めていた。

これまでのような生活を続ける気力は、もうどこにも残っていなかった。

かと言って、親の大反対を押し切り、恋人とも友人とも別れ、
二度と戻ることなど考えないで出てきた田舎には戻りたくなかった。

テーブルに置いた錠剤の瓶を見る。

ドレッサーの鏡には、白いワンピースを着て、丁寧に化粧をした美しい女が映っている。

「お母さん、ごめんね、私、家には帰れない。この本を全部片付けてしまったら……」

由佳里は小さくつぶやいた。

全ての本を棚に入れてみると、数冊が入りきらずに残ってしまった。

何となくスッキリしない気分で、その中の一冊を手にした時、

それが、東京行きの電車のホームで、恋人から手渡された本だったことを思い出した。

新幹線の中で読んでと言われたけれど、とても落ち着いて本など開くことなど出来ず、
読まずじまいになっていて、忙しい毎日の中で、そのまま忘れてしまっていた。

それは、女性のサクセスストーリーを描いた小説で、当時ベストセラーになっていたものだった。

中をパラパラとめくってみて、間に挟まれていた封筒に気付いた。

急いで中を開けてみると、そこには懐かしい恋人の文字が並んでいた。

由佳里、とうとう出発の日が来たね、
君の目はもう未来だけを見詰めていて、
僕の姿など少しも映っていないだろうな。
でも、由佳里、忘れないで。
僕は、ずっと、君を愛してる。
これから3年間の間、君の夢を邪魔しないよう、
遠くから見守って、心の中だけで応援している。
けれど、もしも、3年が過ぎた時、
君の希望が叶っていなくても、
決してがっかりしたりしないで。
僕がここで待っているから。
その時は、二人の時間を巻き戻して、
さっき別れたこのホームから、
もう一度やり直さないか。
由佳里の成功を祈ってる。
由佳里のことを愛している。

「洋司……」

東京に来てからずっと、忘れようと努めていた名前。

心の隅っこの方に、閉じ込めていた名前が、思わず唇から洩れた。

張り詰めていた糸が切れ、感情をさらけ出すスイッチが入ったように、
後から後から涙が溢れて、大きな声を上げて泣いた。

白いワンピースのスカートには、涙の跡がたくさんついて、
丁寧に仕上げた化粧もぐしゃぐしゃになってしまった。

「こんな格好で死んでしまったら、美少女の名に恥じるわね」

泣いた分だけ軽くなった気持ちで、部屋の時計を見詰めてみる。

二人の時間を巻き戻して……

そんなこと、本当にできるだろうか?

でも、もし、そうすることが出来るならば……
いえ、例えそれは無理だとしても、もう一度あの場所に戻って、
新しい明日をやり直すことは出来る。

由佳里はテーブルの上の錠剤の瓶を、そのままゴミ箱に捨てた。

部屋中の窓をみんな開けて、外の空気を吸い込んだ。

いつのまにか春めいた風が頬を心地よく撫ぜた。

今、由佳里の心の中で、人生の第二幕が開こうとしていた。


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。