どうしても思い出せない。
何度も会ったことがあるような気がするのに手……
無性に懐かしい空気を漂わせて座っているその人が誰なのか、
どうしても思い出せない。
声をかけてみようか?じっと見つめて気を引こうか?
あの人は私のことを知っているのだろうか?
それとも、こちらが一方的に知っているだけの人?
向かい合わせの電車の座席、斜め向こうに座る白髪の老紳士が、
説明しがたいような感情を私の中に呼び起こした。
記憶の糸をたぐっても、懐かしさの理由が思い出せず、
もどかしさに少し苛立っていた。
そのとき、誰かの携帯電話が着信メロディを響かせた。
「大きなのっぽの古時計」
ゆったりとしたメロディの向こうで、
老紳士がわずかに微笑んだように見えた。
そうだ!
記憶の流れをせき止めていたつっかえが取れ、
幼い頃の思い出のシーンが、頭の中に流れはじめた。
あれは、まだ小学校に上がる前のこと、
ママとよく買い物に行った商店街に、
小さな洒落た時計屋さんがあった。
店の一番奥の柱には、当時の私の背丈よりも大きな時計がかけてあって、
その下には、子供心にもダンディだという印象のおじ様が座っていた。
中を覗き込む私と目が合うと、いつもにっこり笑ってくれた。
金色のふちのめがねの下にはおじさんの優しそうな目があった。
ある日、買い物をしているママの横をこっそりと離れて、
一人で時計屋さんに行った。
私が一人なのを知ると、おじさんは私を店の中に呼んで、甘いキャンディをくれた。
店の中は全部の壁をたくさんの時計が埋めていて、
それぞれがみな違う時間を指している、ちょっと不思議な空間だった。
私は不思議の国のアリスになったような気分で、時計屋さんの中を見回していた。
ふいにおじさんが椅子から立ち上がって、奥の柱から離れた瞬間……
ボーンボーンボーン
柱にかかった大きな時計が時を告げた。
びっくりして目を丸くする私に、おじさんが声を潜めるようにして言った。
「時計が鳴るときにはあの椅子に座っていられないんだよ」
私は、うっかり座ったまま時計の音を聞いてしまうおじさんを想像して
くすくすと笑った。
おじさんもそれがわかったのか、二人は顔を見合わせて一緒に笑った。
私はおじさんと柱の時計が大好きになって、
それからも、何度か、ママの目を盗んで時計屋さんに遊びに行った。
おじさんの奥さまが、冷たいジュースをくれたこともあった。
あの老紳士は時計屋のおじさんだわ!
豊かで艶々としていた髪はすっかり白くなり、
優しい目には深い皺が刻まれているけれど、あのおじさんに間違いない。
押し寄せてくる懐かしさを押さえきれず、
おじさんに声をかけようと座席から立ち上がりかけたそのとき、
おじさんの持つ紙袋から菊の花束がのぞいているのに気がついた。
あっ……
私が大学を卒業する頃、あの時計屋さんがお店を閉じたことを思い出した。
風の噂で、奥様が重い病気にかかったからだと聞いた。
菊の花……
ダンディだったおじさんがすっかり老け込んでしまったのは、重ねた年齢のせいだけだろうか?
声をかけて、その後はいったいどうすればいい?
懐かしさに一人はしゃいでしまった自分を反省して、浮かしかけた腰を座席に戻した。
電車が次の駅に止まると、おじさんは静かに席を立って、
大切そうに紙袋を抱えて降りて行った。
あの柱時計は今でも、どこかで時を刻んでいるだろうか?
耳の奥で、ボーンボーンボーンという音が響いたような気がした。
そっと目を閉じると、たくさんの時を指す時計たちと、冷たいジュースのグラスと、
優しい目で笑うおじさの顔が見えた。
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