「メシでもいこうか」

部長にランチを誘われるのは、よくあるいつものことだった。

なのに言いようのない不安がよぎったのだから、女の勘は捨てたもんじゃない。

「実は……」

長い前置きと、してもしなくてもいいような話の後、
ようやく入った本題の要旨は、退社勧告だった。

退職金2割増しを条件に、12年勤めた会社を去る気はないかとたずねられたのだ。

今時リストラなんて珍しくもなんともないから、
イタリアンまで奢られながら、言い難そうに伝えられるだけでもありがたいと思うべきだろう。

会社が人員整理を始めていることは、社でも少し前から噂になっていた。

課長クラスの人員削減が本社命令で、人選は各部の部長に一任されていて、
肩を叩かれれば、降格が退社を選ばなければならないという話だった。

頭が切れて気配りができて、ルックスまで良い部長は皆の憧れで、
そんな部長から辞めるようにと勧められている自分は、
役立たずの烙印を押されたダメ人間のように感じられた。

大勢の人がいる場所で、今にも泣き出しそうな女を前にして、
部長は、今、どんな顔をしているのだろう?

表情を見たかったけれど、顔を動かしたら涙がこぼれそうでできなかった。

こみあげてくる感情の波を押えようと、自分で自分の手をギュッと掴むと、
手のひらに冷たい金属が食い込んだ。

「レクタングルは仕事運を上げるそうよ」

そう言って、母がプレゼントしてくれた、入社祝いの時計。

そういえば、大事なプレゼンで成功した時も、
プロジェクトリーダーになった時も、
このレクタングルを着けたいたっけ。

同期で一番早く課長になったあの日だって……。

今日もこうして着けているというのに、どうして今日に限って……。

手のひらでレクタングルが温まっていくのを感じながら、
とうとう堪えきれなくなって涙が落ちた。

もう、顔を上げることはできなかった。

どうして私が辞めなくちゃいけないの?
降格すれば残れるの?
大声でそう叫んで抗議することができたら、どうんなにいいだろう?

でも、そんなことをしたってみじめになるだけだ。

私は、うつむいたままレクタングルを外すと、こっそりと床に落とした。

退職を承諾する返事をすると、最後まで部長の顔は見ないで席を立った。

*****
大きく膨らんだお腹に手をやりながら、私は、最悪だと思った出来事が、
実は最高の幸せの始まりだったことを思い出していた。

「あの日が人生の分岐点だったわね、きっと。
だって、もしあのままずっと仕事を続けていたら、今の幸せはなかったと思うもの」

「仕事が恋人って感じだったからな、あの頃の君は」

「あなたがクビにしてくれたおかげよ」

「クビにしたなんて人聞き悪いなあ」

部長……いえ、夫が笑いながら言った。

細いリングが光る左手の手首には、
あの日夫が拾い上げてくれたレクタングルが、今も時を刻んでいた。


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。