初老の男が、夜更けの路地裏で何かを探している。

ビルとビルの隙間からのぞいた青いビニールシートを見つけると、嬉しそうに近づいていった。

それを路地の脇まで引っ張り出し、括ってあるロープを外すと、中からは机と椅子と、小さなダンボール箱があらわれた。

箱の中の布地には、「占い」という文字が白抜きされている。

あの時、あの言葉を信じて行動してさえいれば……

台の上に両手を置いて、男はまた思い出していた。

男が思い出しているのは、何十年も昔、心から愛していた女性のこと。

女性は男にとって、女神のような存在だった。

もしもあの時………

男の目に後悔の涙が沸きあがってきたとき、若い女の声がして我に返った。

「あの、占っていただけますか?」

黒目がちの素直そうな瞳がまっすぐにこちらを見ている。

男は、本当のところ、占いなどよくは知らない。

けれど、ふと気づくとこんなふうに街角の路地裏に座って、道を行く迷い顔の男女に話しかけられている。

どの人も皆、あの日の自分のような気がして、放っておけない気持ちになる。

だから男は、その場その場で思いついたことをほんの少しだけ口にしながら、前に座った人の話にじっと耳を傾ける。

彼らが話していることは、半分もわからないが、構いはしない。

最後にあの言葉を口にしさえすれば、皆迷いの晴れた顔をするからだ。

中には、疑わしそうな目をする人もいるが、その目をじっと見返して、男がゆっくり頷くと、納得した顔になって席を立つ。

自分の言葉を聞いたあと、軽い足取りで去っていく若者の後姿を見るのが、男はとても好きだった。

男が愛した女性は、使用人のいる大きなお屋敷で暮らしていた。

男は自分の熱い思いと、女性を自分のものにしたいという願いが、分不相応で決して叶うことのないものだとよく分かっていた。

それでも、喫茶店で女性と待ち合わせ、眼差しをからめて語り合う時間は、男を有頂天にさせた。

喫茶店での逢瀬が数ヶ月続いたある日、男は女性の口から思いがけない言葉を聞いた。

女性に、縁談が持ち上がっているというのだ。

相手はさる財閥の御曹司で、仕事で外国に渡る前に婚姻したいと返事を急かせているという。

女性は珈琲を飲み終えると、長い睫を伏せたまま、男に向ってこう言った。

「これからもずっと、白井さんとここでお話することができたらどんなに良いでしょう」

男は家に帰ってからも、事態を上手く飲み込めず、三日三晩悩みぬいた。

そして、身分違いを承知の上で、女性にプロポーズすることを思い立った。

ありったけの貯金をはたき、友人知人を頼って借りられるだけのお金を借りた。

そしてようやく、小さなダイヤモンドの指輪を買った。

それでも、まだどこか迷う心を晴らすために、路地裏に店を出す占い師の前に座った。

「思うままにしてよし」

占い師は、穏やかな中にも威厳のある声でそう告げた。

その言葉に背中を押され、すぐに女性のお屋敷に向った。

裏口の角を曲がったところで、立派な正門の前に止まるピカピカの大きな車を見つけて、反射的に塀に身を隠し、車の様子を伺った。

すると、助手席から愛する女性が現れた。

薄暗がりで、女性の表情はわからなかったが、ドアをあけた背の高い男が女性の背中に馴れ馴れしく手を回すのがわかった。

それは、例の御曹司に違いなかった。

男はぶつけようのない怒りと自分自身に対する羞恥で、体がカッと熱くなり、さっきまでの決心と勇気がへなへなと萎えていくのを感じた。

やはり分不相応な恋なのか……

その女性が亡くなったと知ったのは、男が中堅商社で係長になった頃だった。

あの日喫茶店で言っていた通り、女性はすぐに結婚してアメリカに渡っていた。

仕事の忙しい夫は不在がちで、一人で過ごす時間の方が長く、義父母は子供がなかなか出来ない女性を、役立たずと蔑んでいたらしい。

女性は、慣れない土地での生活や、義父母への気苦労で心身ともに疲れ果て、ようやく身籠った赤ん坊を死産した上、産後の肥立ちが思わしくないまま、帰らぬ人となってしまったというのだ。

知人がもたらしたその訃報に男は絶句した。

そのあと、女性の結婚が傾きかけた父親の会社を救うためのもので、そこには愛情のかけらもなかったのだと聞いた瞬間、ついに感情を抑えきれなくなってしまった。

もしも、あの時……

後悔と自責と悲しみの涙が溢れだし、人目も憚らずに泣いた後のことは、もうよく思い出せない。

それからの数十年間に、幸せな結婚をしたことも、可愛い娘が生まれたことも、今の男にとっては微かな記憶でしかなく、それが現実だったのかどうかさえわからなくなっている。

何度も繰り返し思い出すのは、あの日の後悔とあの言葉ばかり。

もしも、あの時……

男は服の下の、首からぶら下げた四角いお守り袋を探った。

指でゆっくりなぞっていくと、真ん中あたりにコツンと小さな膨らみがある。

それは、あの日愛する女性に贈るはずだったダイヤモンドの指輪、行き場を無くした男の熱い想いだった。

「あの、ちょっとみてもらえますか?」

スーツ姿の若者が男の前に座った。

早口で喋る若者の話は男には殆ど理解できなかった。

それでも男は最後に、落ち着いた声でゆっくりと、あの言葉を口にした。

「思うままにしてよし」

若者の顔がみるみる輝いていくのがわかった。

若者は何度も何度も礼を言って帰っていった。

小さくなっていく若者の背中を眺めながら、男はぼんやり考えていた。

あの若者は、好きな女に自分の買った指輪をはめてやれるだろうか?と。

「お父さん、またこんなところに!」

見たことのある女性が大声を出している。

その傍にはいつも食事を食べさせてくれる丸顔の看護婦もいた。

「さあ、白井さん、お部屋に帰りましょうね」

看護婦は男の肩に手を置いて、優しい声で話しかけた。

そういえば少し腹が減ったなあ。

男はほかほかと湯気をたてる白いごはんを思い浮かべた。

「思うままにしてよし」

唇はまた、あの言葉をつぶやいていた。

 

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