白い便箋の文字を見詰めてたまま、希代子は身じろぎも出来ずに立ち尽くしていた。

長い年月を飛び越えて、忘れていたはずの日々が蘇ってくる。
心の奥に仕舞いこんで、鍵をかけてあったはずの記憶が……。

浩太と私は同じ土地で生まれ育った幼馴染だった。
いつも辺りが暗くなるまで、一緒に山や川を駆け回って遊んでいた。

二人がお互いを異性として意識し始めたのは、いつの頃からだったろう?
手をつなぐだけで幸せなとても幼い恋だった。

そんな時間がいつまでも続き、いずれ浩太のお嫁さんになることを、希代子は信じて疑わなかった。
中学を卒業したあの日、浩太が東京に行くと言い出すまでは。

希代子が、自分の周りにあって手の届く幸せだけを見詰めていた頃、
浩太は希代子への恋心と同時に、将来への大きな夢を持ち始めていた。

祖父が連れていってくれた映画を見たのがきっかけだった。

祖父好みの時代劇が、浩太にとって特別面白かったわけではないが、
スクリーンに映し出された主役俳優の圧倒的な存在感には、すっかり目を奪われてしまった。
なんて堂々としていて、男らしく格好いいのだろう。
浩太は自分があの俳優のように、堂々と剣を構え、
この大きなスクリーンいっぱいに映し出されることを想像した。

ふと芽生えた憧れは、日を追うごとに大きく膨らみ、
卒業を迎える頃にはしっかりとした意思となって、浩太の気持ちに根付いていた。
俺は東京に行って俳優になる、と。

それまで希代子に言い出せなかった東京行きを、この日、ようやく切り出した浩太は、
呆然とする希代子に、初めて、まるで大人のような台詞を言った。

「愛してる」

冷たい水が喉を潤し、胃に落ちて染み渡っていくように、
浩太の言葉が、希代子の心に染み込んでいった。
体の芯がじんとして、何かが溢れてくるようだった。

「私もよ」

涙がこぼれてしまいそうで、ぎゅっと目を閉じたまま浩太に抱きついた。

浩太の不器用な指が、希代子の顔をそっと持ち上げ、自分の唇を静かに重ねた。
初めてのキスの味は、とうとう流れだしてしまった涙で、ほんの少ししょっぱかった。

そして、間もなく、浩太は東京に出た。

頻繁にやり取りしていた手紙も、浩太の名前がラジオで聞かれるようになり始め、
少し大人びた顔が雑誌に載るようになった頃から、だんだんと減っていった。

そんなある日、久しぶりに届いた長い手紙には、浩太が始めて主役を得て、
かつてスクリーンで見た大物俳優と共演することが決まったという、喜びの声が綴られていた。

浩太はそのお祝いと記念に、これまで貯めたお金を全部使って、
その大物俳優がしているのと同じ、高級な時計を買ったのだという。

希代子はそこに書かれている聞いたこともないメーカー名とその金額を見て、
浩太がもはや自分とは全く違う世界で暮らしていることを痛感した。

浩太からの手紙はめっきり減っていたが、簡単な近況を知らせる短い手紙がなくなることはなかった。

希代子はその短い手紙に、何倍もの長さの返事を書き、どんどんと忙しくなる浩太の体を気遣った。

田舎にまですっかり普及したカラーテレビで、浩太の姿をよく見るようになると、
希代子はますます浩太と自分が離れていくのを感じた。

けれど、それとは裏腹に、浩太を想う気持ちは強くなっていった。

高等学校を卒業し、働き始めた希代子のことを、デートに誘おうとする男性は多かったが、
希代子はどの男性とも二人だけでは出かけなかった。

けれど浩太は、何人もの綺麗な女優との恋を、噂されるようになっていった。

そして、とうとう、浩太からの手紙が届かなくなった。

それから1年が過ぎて、希代子が現実を受け入れる覚悟をし始めた頃、
浩太と噂があった女優が、二人の婚約を発表した。

希代子は、これまでやり取りしたたくさんの手紙をみんな処分して、
一番熱心に誘い続けていた男性と、初めて二人だけで出かけた。

あれから二十年以上が過ぎた。

優しい夫にも、可愛い子供達にも恵まれた。
希代子は自分の人生に、何の不満も持っていない。

だから、突然届いた手紙に困惑した。

手紙の差出人は、浩太の妻だった。

すでに大物と呼ばれるようになっていた浩太が、
半年前に突然の病気であっけなくこの世を去ったことは希代子も知っていた。

強い悲しみが消えるまでしばらく時間はかかったが、
夫と子供に悟られないよう、普通の生活を維持していた。

それなのに……。

手紙には、浩太の妻が、かつて自分の取った行動を詫びる文章があった。

一緒に届いた小包には、浩太がいつか手紙に書いていた、あの高級時計が入っていた。

この時計にふさわしい役者になるのだと、
がむしゃらに努力していた浩太の、若い笑顔が思い出された。

彼女は、当時恋人と噂され、事実同棲に近い形で暮らしていた浩太が、
国の恋人に宛てて書いていた手紙を、密かに捨てていたのだと告白して詫びた。

そのおかげで自分達は結婚することが出来たし、夫もその生活に満足していたと思っていたけれど、
突然倒れた浩太が病院に運ばれ、朦朧とした意識の中で最後に呟いた言葉に、
自分のしたことの重大さを思い知らされたのだという。

浩太が小さく呟いた名前が、傍にいる妻でも子でもない、「きよこ」という名前だったから。

希代子は堪らなくなって、大きな声をあげて泣いた。
体中の水分がなくなってしまうかもしれないと思われるほど、たくさんの涙を流した。

そして、ひとしきり泣き終えると、ゆっくりと立ち上がった。

優しい恋人として、良き夫として、頼もしい父親として、
彼は自分自身の人生においても、最高の演技をしようとしていたのかもしれない。

そして、そうであるならば、大切なラストシーンで、
その演技を台無しにするようなことがあってはいけない。

希代子は真新しい便箋を取り出して、浩太の妻に宛てて、丁寧に文字を綴り始めた。

自分への気遣いのお礼、今の幸せな家庭の状況、そして、ひとつの嘘、
……いえ、女優になったつもりで語る、浩太と共演するドラマのラストシーンの大切な台詞を。

ご主人が臨終の際で呼ばれたというお名前、「きよこ」は確かに私の名と同じですが、
私達がお付き合いしていた遠い昔、彼はいつも私のことを「きよちゃん」と呼んでいて、
私は、ただの一度も、「きよこ」という名前で呼ばれたことはありません。

希代子は彼の人生が刻まれた腕時計を一度だけ腕にはめて、その重みをかみ締めながら、
この時計もやはり、悲しみに沈んでいるであろう妻の元に送り返そうと考えていた。