「昨日の雨、本当にすごかったわね。あなたが居なくて怖かったわ。」

可愛く怯える妻は5つ年下で、結婚して3年が経つ。

昨夜は大雨のせいで電車のダイヤも大幅に乱れていた。

「電車も止まっていたし、タクシーもつかまらなくてね……
一人で過ごさせてしまって本当に悪かった」

俺は妻を抱き寄せて優しく言った。

実は、深夜まで他の女の家に居たことになど、
妻はもちろん気付いていない。

《この集中豪雨でタクシー運転手田中正道さん56歳が……》

テレビは、隣町で大雨の犠牲となった不運な人の名を告げていたが、
窓の外には青空が広がり、夏を謳歌するセミの合唱が聞こえている。

「大切な商談があるから今夜も遅くなるよ。」

玄関で手を振る妻にそう告げて家を出た。

商談を成功させ、女の子のいる店で同僚と祝杯をあげ、
明日が早いからという同僚に付き合って店を出た。

「たまには真っ直ぐ帰ってやるか。」

電車に乗って少しうとうとし、はっと気づくと
隣に髪の長い女が座って、同じように居眠りをしていた。

頭を俺の肩にもたせかけて、
開いた襟から白い胸元がのぞいている。

柔らかそうな膨らみが寝息と共に上下して、
ときおり、小さな吐息を漏らす。

頬は赤く染まっているから、少し酔っているのだろう。

うつむき加減の顔に長い髪がかかっているため、
女が美人かどうかはよくわからない。

ただ、女のふっくらとした唇は俺好みで、
女の触れている左側からは、甘い熱が伝わってくる。

「ううん……」と言って女が少し体を動かすと、
豊な膨らみが左腕に当たった。

悪い気はしない。

終点まで乗って行ったところで、どうせそれほど遠くはないから、
タクシーを拾えばいい。

俺は女が起きるまで、この感触を楽しむことにした。

本来であれば下りるべき駅を過ぎ、次の駅が近づいた時、
女が突然顔を上げた。

ゆっくりと目を開いた女は、俺の顔を見てにっこり笑った。

「お久しぶりね」

見覚えのある目は、専務の娘である妻との婚約が決まった時、
清算した女のうちの一人だった。

当時はもっと短い髪だった。

驚く俺に、彼女は続けた。

「あなたが迎えに来てくれるのを、ずっと待っていたのよ」

そう言いながら差し出した左手の薬指には、昔贈った細い指輪が
まだそのままはめられていた。

彼女との関係は、きちんと清算したはずではなかったか?
まさか、俺の結婚を知らなかったのだろうか?

俺は昔の記憶を辿ったが、混乱していて思い出せない。

「ねえ、私たちいつ結婚できるの?」

ほろ酔い気分はすっかり冷めて、嫌な汗が背中を伝った。

……男にとって、これ以上怖い話などあるだろうか?

続編の『タクシー運転手』もぜひあわせてお読みください。


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。