「また一方通行だわ……」

トラブルの謝罪で郊外の客先を訪ね、さんざん嫌味を言われた帰り道、
晴れない気分をどうすることもできず、イライラしながら運転していた。

近道しようとしたのが仇になって、さっきからずっと、
路地裏の道をくるくると周り続けている。

はあ。

なんだかすっかり疲れてしまって、空き地の脇に車を止め、地図を見ようとしたその時、
空き地の反対側、30メートルほど先のところにぽつんと、小さなお店があるのが見えた。

車のウインドウから店の看板は見えないが、
その佇まいからして子供相手の駄菓子屋さんといったところだろう。

空き地の広場に駄菓子やさん……

何だかノスタルジックな町だわ、と少し笑って車を降り、
ジュースでも買ってついでに道を聞いてこようと考えた。

ところが、店に近づいてみると、ガラスの引き戸には
消えかかった白い文字で、「いで時計店」と書かれていた。

なーんだ、時計屋さんか。と少しがっかりしたものの、
せっかくだから道だけでも聞いてみようと戸を開けた。

「すみません」

店内に入ると、カウンターのようになったショーケースの向こうに、
人ひとりがやっと座れるスペースが出来ている。

そこには、使い込んだパイプ椅子が置いてあって、
毛糸で編んだカバーのついた座布団が乗っていた。

その後ろで開けっ放しになっている引き戸の奥から
何とも懐かしい匂いが漂ってくる。

「ごめんください!どなたかいらっしゃいませんか?」

もう一度声をかけてみると、

「はいはい」

とのんびりした返事が返ってきて、
深い皺が刻まれた白髪のおじいさんがゆっくりと出てきた。

皺と見分けがつかないほど細い目をさらに細めて、

「いらっしゃい」

と言うと、顔中の皺全部が笑っているように見えた。

「何かお探しですか?」

「あ、いえ……ごめんなさい。時計を買いにきたんじゃないんです。
私、道に迷ってしまって……」

「それは大変でしたね。で、お嬢さんはどちらに……」

おじいさんがそう言いかけた時、
さっきからずっと漂っていた懐かしい匂いがさらに強くなって、
奥からぽってりと太ったおばあさんが顔を出した。

手に持っているお皿には、ほかほかと湯気を立てる鬼まんじゅうが乗っている。

あっ。

そうか、さっきからずっと懐かしいと感じていたのは、
この鬼まんじゅうを蒸している匂いだったんだ。

そういえば、小さい頃よく、おばあちゃんが作ってくれたっけ……。

「お嬢さんもご一緒にいかがですか?」

白いおまんじゅうのようにふくよかなおばあさんの笑顔と、
アツアツの美味しそうな鬼まんじゅうが目の前に差し出された。

「あ、でも、私……」

「お嬢さんはそんなにお急ぎかな?
もしそうでなければ、わしらと一緒に一息ついていかんかね?」

全部の皺で笑うおじいさんの声が、
うんと小さい頃につないだお父さんの手のように暖かくて、

私は思わず

「はい」

と答えていた。

頬ばった鬼まんじゅうは、ほんのりと甘くって、
疲れ切った神経を緩めてくれるようだった。

「美味しい」

反射的に言葉が漏れた。

「たくさんあるから、どんどんお食べなさい」

そう言うおばあさんの声が、なぜか田舎の母の声に聞こえた。

え!?

驚いて見直したおばあさんの顔は、相変わらず白くふっくらとしていて、
痩せて頬のこけた母の顔とは全く違うものだった。

けれど、私を気遣い心配するようにのぞき込むその眼差しは、
あの時の母の目と同じ優しさと愛情に満ちていた。

「おかあさん……」

母は私が幼い頃父と離婚して、女手ひとつで私を育てた。

私は、どんな事があっても泣かずに頑張る母の後ろ姿を見て大きくなった。

中学を出たら働こうと決めていた私に、
母は、どうやって貯めたのかと驚くような金額の通帳を差し出して、
安心して進学しろと言ってくれた。

高校時代は死にものぐるいで勉強して、大学には奨学金を貰って通った。

卒業後は大手メーカーに就職し、
初任給で母に少しだけ贅沢なプレゼントをして、
誰の前に出しても恥ずかしくない娘に育ったと母を喜ばせた。

あの時の食卓にも、おばあちゃんが作ってくれた
鬼まんじゅうが乗っていたことを思い出す。

これからは、母を助けて、二人で楽しく暮らしていける。

そう思っていたはずなのに……

その後私は恋をして、母より恋人を優先するようになった。

その恋人を快く思わなかった母とは、それから何度も衝突をした。

そして、とうとう、私は家を飛び出してしまった。

あれから4年。

恋人とは去年別れて、今は一人で暮らしている。

けれど、啖呵を切って出ていった母の元に戻ることは出来なかった。

「うっ……」

母の目を思い出したら、胸がたまらなく熱くなって、
涙がどっとこみ上げてきた。

「おじょうさん、どうしたね?」

おばあさんが優しく訪ねる。

「この…… 鬼まんじゅうがあんまり美味しいから……」

私はそう言って、こみ上げた涙を溢れさせたまま、
おばあさんの鬼まんじゅうを2つ平らげた。

古びたガラス戸を開けて、再び外の空気を吸った時、
私の心はなぜか晴れ晴れとして、とても爽やかになっていた。

一緒に外に出てきてくれたおじいさんに道を聞くと、心からお礼を言って車に戻った。

バックミラーに映るおじいさんのしわしわ笑顔を見ながら、
今夜は母に電話してこれまでの事を謝って、うんと甘えてしまおうと思った。

それから、近いうちに母に会いに行こう、とも。

「ばあさん、ばあさん、ちょっと出てきてごらん」

「はいはい、おじいさん、なんですか?」

「この扉、店の名前が半分消えてしまっているのう」

「本当ですね、おじいさん。ペンキで書き直しましょうか?」

おじいさんはしわしわの顔で扉を見詰めると、大きく頷きながら言った。

「そうじゃのう。ちゃんと書き直そうかのう。“おもいで時計店”とな」


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。