「お母さん、元気だった?」

振り返った母が驚いた顔をする。

「あれ、まぁ、来るんならそう言ってくれれば
美味しいものでも用意したのに」

「そう言うんじゃないかと思って、わざと連絡しないできたの。
ほら、今年はお正月にも来られなかったでしょ、
お母さんの顔が見たくなっちゃって」

「奈々子も一緒かい?」

「ううん、奈々子はお友達のところ。
遠くてなかなか来られないし、彼女も会いたい人がいっぱいいるみたい」

「そうかい……」

「そんな露骨に残念な顔しないでよ、
かわいい娘がこうして遊びに来てるんだから充分でしょう?」

ふざけてすねた真似をして見せると、母は慌てて笑顔を作った。

「お前が来てくれれば充分だよ。
そうだ、珈琲、飲むかい?
この前父さんが良い豆を買ってきてくれたんだ」

「うん、飲む!そういえば、お父さんは?」

「さっきちょうど買い物に出ちゃったんだよ、
お前が来るって分かってたら、待ってたのに……」

「いいわよ、たまには女ふたり水入らずも悪くないわ」

「あっちはどうだい?寂しくないかい?」

「そうね……まだ慣れないこともあるけど、思ったよりいい感じよ、
お母さんこそ、膝の痛みはどう?ここのところ寒いから心配で……」

「大丈夫だよ、父さんが毎日マッサージしてくれるんだ」

「そう、よかった。お父さん、優しくなったわね」

あんなに頑固でいつも威張っていたお父さんが、
母の足をマッサージするようになったなんて驚きだが、
老夫婦が仲良くやっていてくれることはありがたい。

遠く離れてしまった私では、母の役に立てないのだから。

「あ!お母さん、これ、買ってくれたの?」

本棚に私の本があるのを見つけて、思わず声が弾む。

「ちゃんと読んだよ、ずいぶん時間がかかっちゃったけどねぇ」

昔から本なんか読まなかった母は、
目が悪くなってから新聞のチラシさえ見ないようになった。

そんな母が、活字ばかりの分厚い本を読んでくれていたなんて。

「当たり前じゃないか、お前の書いた本なんだから、他の本とは違うよ。
お父さんなんて、50冊も買って、知り合いに配ってたんだから」

そんなことしてくれたんだ、知らなかった。
思わず涙が出そうになる。

「でも、もう新しい本は出せないんだねぇ」

母がポツリと言った。

「そんな顔しないで!1冊出せただけでも幸せよ!
それに、ほら、けっこう売れてるし、これで……」

そこで思わず言葉に詰まった。

そうだ、この原稿をコンクールに出したのは、
賞金を娘の奈々子に残すためだった。

そして、もしも、出版された本が売れて少しでも印税が入れば、
それも奈々子のものになる、そう思って必死で仕上げた作品だった。

それなに、あんな事故が……。

「あ、もうこんな時間、お母さん、私、そろそろ行くわ」

「もう行くのかい?もう少ししたら父さんも帰ってくるのに」

「ごめんね、ゆっくりしていられなくて……」

「私もそっちに行こうかなぁ?」

「何言ってるのよ、そんなの絶対にダメよ!お父さんが悲しむわ」

「そうだよねぇ、父さんをひとりにはできないよねぇ……」

「お母さん、お父さんのことお願いね!私には奈々子もいてくれるから」

「また……またいつか来るね。珈琲、美味しかったわ、ご馳走さま!」

私は、振り返らずに母から離れた。

******

「母さん、帰ったよ」

寛は自分でドアの鍵を開けて中に入ると、
今度は、内側からしっかりと鍵をかけた。

妻がひとりで外に出ていってしまわないように。

「母さん、ただいま」

妻の傍まできて、もう一度声をかける。

「あぁ、お帰りなさい。今ね、あの子が来てたの」

「そうかい、あの子は元気だったかい?」

「とても元気そうだったよ、あっちの生活も悪くないって」

「奈々子も来たのか?」

「いいえ、あの子だけ。珈琲を煎れてあげたら、美味しかったって」

「そうかい、良い豆を買っておいて良かったな」

妻の座る迎い側には、珈琲の入ったカップが置いてあった。

「母さん、もう少し暖かくなったら、
ふたりであの子たちのお参りに行ってやろうな」


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。