春色の口紅を塗り終えて鏡に向かってニッコリと微笑む。

うん、OK。

綺麗にカールした睫も、ほんのり入れたチークも決まっているし、

瞼に乗せた微妙なパール感など完璧といってもいい。

鏡に映る美しい顔を見ながら、昨夜の怜二のプロポーズを思い出して、

沙耶は幸せをかみ締めた。

鏡の中の自分に話しかけるように昨夜の出来事を反芻し、

薬指に光るダイヤをうっとりと眺めながら、しばらくの間幸せな気分を満喫した。

その時、ほんの一瞬、何か微かな違和感がよぎったが、

沙耶はそれほど気にとめなかった。

窓の外から怜二のベンツのクラクションが聞こえると、

バックに口紅を入れて、軽やかな足取りでドアを出て行った。

踵を返した沙耶の後ろ姿が、ドアの向こうに消えたすぐ後、

ごくごく僅かな時間だけれど、沙耶の背中がまだ鏡の中に映っていたことには気づかないまま……。

今日のデートも素敵だった。

走り去る怜二の車に手を振って窓を閉めると、

沙耶は幸せがこぼれ出したような溜め息をついた。

部屋着に着替えてドレッサーの前に座り、

コットンに含ませたオイルでマスカラを落とす。

早く式を挙げて一緒になりたいという怜二と同じく、

沙耶も一日でも早く怜二と一緒に暮らしたいと思っていたから、

二人は今日、すぐに式場を探しに出かけた。

怜二は沙耶の希望を全部聞いてくれて、

二人にとって最高の式が挙げられそうなホテルに予約を入れることができた。

三ヵ月後、身に纏うことになる純白のドレスを、

鏡の中の自分に重ね合わせて、沙耶はまたうっとりとした。

そんな沙耶を、じっと見詰めている瞳があった。

――2ヶ月後――

式の準備は着々と進み、沙耶の回りも何かと慌しくなっていた。

怜二は相変わらず優しかったし、沙耶が幸せであることに変わりはなかったが、

同時に、今やはっきりと感じ取れるようになってしまった違和感を
どうしてもぬぐいきれなくなっていた。

鏡に映る沙耶の姿が、現実のそれとほんの少しだけズレるのだ。

気のせい、で片付けてしまうことが難しいと思えるくらいに。

沙耶は何だか気味が悪くて、できるだけ鏡を見ないようにしていたが、

それでも、化粧をする時や、ワードローブを決める時には、

鏡を見ないわけにはいかなかった。

怜二にも話してみたが、「式の準備で疲れてるんだよ」と取り合ってくれなかった。

――結婚式当日――

美しくメークをし終えた沙耶が鏡の中で微笑んでいる。

「ありがとう」

ゆっくりとお礼を言う沙耶の声に明るく答えた美容師が、

鏡の方に視線を移して、思わず手に持っていた櫛を取り落とした。

その引きつった表情を、鏡で確認した沙耶は、小さく溜め息をついた。

鏡の中ではもう口を閉じているはずの沙耶が、

「ありがとう」と言っていた。

今や、誰の目にもわかるほど、現実の沙耶と鏡に映る沙耶ははっきりとズレていた。

「おどろかせてしまってごめんなさい。あとは私ひとりでします」

小さく溜め息をつく鏡の中の沙耶と、言葉を発している沙耶のズレに

混乱している様子の美容師は、逃げるように部屋を出て行った。

鏡の中の私がズレているだけ、その他は何の問題もない。

「おどろかせてしまってごめんなさい……」

と言っている鏡の中の自分を睨みつけ、沙耶は自分の幸せを再確認しようとした。

その時……

「幸せになるのは私よ」

鏡の中から発したはずのない沙耶の声が聞こえてきた。

「怜二さんと出会ってからこれまでずっと、あなたは私に話しかけてたわね。

私ってなんて幸せなのかしら?って。

何度も何度もうっとりとした表情で、その指輪を眺めていたでしょう?

私はここから一歩も出られないまま、来る日も来る日もあなたの惚気話を聞かされていて、

もういい加減うんざりしていたのよ。だから、いつかこうして……」

沙耶は手首を強い力で掴まれるのを感じ……

「そろそろお式の時間です」

ドアの外から呼びかける声がした。

「はい」と返事をしてゆっくりと立ち上がった沙耶と、

鏡の中に映る沙耶の間には、もう、ほんの少しのズレもなかった。

 

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