左手にはめた時計を見ていると、今でも胸が高鳴ってくる。

誰も知らないけれど、これは、「彼」とお揃いの時計。

7年間の結婚生活の中ではじめてした、自分だけのための高額な買い物。

「彼」と会ったのは春のはじめ、重いコートを軽やかなジャケットに着替えた頃。

あんな出会いは、映画か小説の中でしかありえないと思っていたし、
ヒトメボレ、などという出来事が夫のいる自分の身に起こるとは、想像をしたことさえなかった。

忘れられない季節になったこの夏の出来事は、まるで夢のようだった。

全ての出来事が真実だった証は、今、左手で正確な時を刻んでいる、この時計。

「彼」は、よく買い物にいくドラッグストアの店長だった。

私は、いつものように特売の広告をチェックして、
今日のお買い得品を手に入れるため、開店時間に合わせて買い物に出た。

自宅から数分の距離を自転車で飛ばし、
先着数名分しかない特売品も買うことができて、上々の気分だった。

両手いっぱいの荷物をカゴや荷台に積み込んで自転車に乗り、
さあ出発と思った瞬間、突風が吹いた。

ガッシャーン!

突然のことにバランスを崩した私は、自転車ごと横倒しになり、
買い物した商品と、バックの中身を派手に撒き散らしてしまった。

その音に驚いて、店から走り出てきたのが、
春からこの店の店長に就いたばかりの、「彼」だった。

彼はすぐに私を抱き起こすと、怪我はないかと心配し、
恥ずかしさと自転車の当たった脚の痛みで、顔も上げられなくなっていた私の代わりに
全ての荷物を拾い集めた。

それから、ゆがんでしまった自転車を脇によけると、
「とりあえずこちらで休んでください」と、
私を抱きかかえるようにして、従業員用の休憩室に案内してくれた。

たくましい腕に、高級ブランドのシンプルな時計が似合っていた彼は、
ドラッグストアの店長というよりも、一流企業のビジネスマンといった雰囲気だった。

その上、ホストクラブでもナンバーワンになれるのではないかと思うほど、
女性の扱いが上手かった。

私の恥ずかしさが最小限で済むよう周りの人に気を配り、
ぶちまけた時に汚してしまった商品は、店員に指示して新しい物に取り替えてくれた。

脚の怪我を手際よく応急処置すると、
念のため、とタクシーを呼んで、病院まで送り届けてくれた。

軽い打撲、という診断を伝えたときに見せた笑顔が、いつまでも心から離れない。

それは、もう、恋だった。

誠実で子煩悩な夫に、これといった不満があるわけではない。
愛しても、いる。

けれど、その笑顔にときめかなくなって、もうどれくらいたつだろう?

平凡な幸せと、無難な生活の中で、恋心は穏やかな家族愛に変わっていった。

それは、私にとってとても幸せなことだった。

それでも、ときどき、母でも妻でもない女性として、
何かとても大切なものを失ってしまったような気がすることがあった。

そんなとき、彼の笑顔に出会ってしまった。

翌日、休憩時間を使って彼が届けてくれた自転車は、きちんと修理がしてあった。

昼食は忙しくて抜くことも多い、という彼に、
「お礼」という名目で、私の作ったランチをご馳走した。

感激しながら食べる彼を見て、料理が得意だったことをはじめて誇らしく思った。

小一時間はあっという間に過ぎ、特別な話しや約束をすることなく、
彼は仕事に戻っていった。

それから……
ルーティーンワークの一つでしかなかった買い物が、一日のメインイベントになった。

着易さだけで洋服を選ぶことをやめて、自分に似合う色を一生懸命探すようになった。
メイクを研究して、これまで使ったことがないような色の口紅もつけるようになった。
少しでも、綺麗になりたいと思った。

ときどき、彼と話しをするチャンスがあった。

どんな話題にもついていけるようになりたいと思って、
ざっと読むだけだった新聞にも真剣に目を通すようになった。

そのうち、毎日彼のことばかりを考えている自分に気がついた。

少し気をそらそうと、やりかけのまま途中で放り出していた
通信教育のテキストを引っ張り出してきた。
勉強をしていると、少しだけ彼のことを忘れることができた。

何かが変わり初めていた。

袖なしのワンピースを着始めた頃、友人達から、
「最近綺麗になったね」とか、
「なんだか生き生きしてるわね」と言われるようになった。

事実、私の生活は輝いていた。
彼がこの街にいる、そう思うだけで毎日が楽しかった。

彼は、買い物の度に私に話しかけてくれた。

ときどき、ランチを一緒に食べた。

私も彼も、それ以上の出来事を望みながらも、
その気持ちを口にすることは、決してなかった。

そんな彼に、恋心はさらに深まった。

「忙しい」が口癖だった夫の帰宅が、すこしづつ早くなってきたのは、
いつ頃からだったろう?

夫から私に話しかけてくることも多くなり、
私は「彼」に抱いている恋心とは別のところで、それもまた好ましく思った。

夏も終盤に入った頃、突然、彼の転勤の噂を聞いた。

それを本人から直接聞いたのは、彼と最後のランチを一緒にとっていた時だった。

あと数十分で二度と彼に会えなくなると思うと、涙が溢れそうになった。

彼の腕で時を刻む時計の音が急に大きくなったような気がした。

彼に新しい連絡先を聞きたいという気持ちでいっぱいだったが、
とうとう、それを聞くことが出来なかった。

そして、彼も、自分から言い出すことはなかった。

初恋の終わりのような沈黙の中で、正確に刻む針の音だけが響いていた。

私の生活に、恋と、輝きと、変化を与えてくれた彼と、同じ時間を生きたいと思った。

もう二度と会えなくても、同じ時間を生きていると感じられるよう、
彼と同じ、あの時計を身に着けようと決めた。

貯めていたへそくりを全部おろして、その高価な時計を手にしたとき、
彼との淡い恋の思い出を、その中にみんな閉じ込めた。

時計の針が軽やかに時を刻んでいる。

もうすぐ約束の時間だ。

女性らしいスーツにも良く似合うこの時計は、前にもまして出番が多くなった。
なぜなら、この秋、私は就職したから。

通信教育のテキストをやり終えて、試しに受けてみた試験で、
インテリアコーディネーターの資格を得ることができた。

たまたま募集していた住宅会社のデザイン部に、すんなりと就職が決まって、
毎日は忙しくなったけれど、輝きは、さらに増した。

今日は、夫のたっての希望で、会社帰りに待ち合わせて一緒に食事することになっている。
もうすぐ、約束の時間。

今は、私の知らないどこかで暮らしている彼の腕でも、
この、同じ時計が、輝く時を刻んでいるにちがいない。

信号の向こうで、私に気付いて手を振っている夫が見えた。

こうしてみると、夫の笑顔も、まんざらじゃないと思った。

私は大きく手をふり返しながら、青になった信号を、夫の元へと渡り出した。