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クリスマス, ショートストーリー, リスタート, 怖い話

「ねえ、あなた、私、お仕事に出てもいいかしら?」

終電で帰宅して、レンジで温めた夕食の皿をつついていると、パジャマ姿の妻が話しかけてきた。

「仕事って……」

結婚して5年、俺の仕事は年々忙しくなる代わりに、昇進も順調で、
妻が生活の心配をする必要のない給料をもらっていた。

「お金に困っているわけじゃないだろう?」

「お友達がね、輸入化粧品の代理店を始めたの。
商品は薬草を原料にしたナチュラルなもので、ヨーロッパではたくさんの人が
使ってるんだけれど、日本にはまだほとんど入ってきていないから、
訪問販売の形をとって、説明しながら売るんですって。
それで、ね、私に、そのお手伝いをしてほしいそうなの……」

「なんだ、化粧品のセールスか。お前には無理だよ、簡単には売れやしない」

広げた新聞に視線を戻し、まだ何か言いたそうにしている妻をさえぎった。

妻はそれ以上何も言わずに休んだので、納得して諦めたものと思っていた。
が、しばらくして、妻がその仕事を始めていたことを知った。

少しいやな気分にはなったが、どうせ僕が会社に行っている間だけのことだし、
大目に見てやることにした。

その日読んでいた新聞には、気味の悪い事件が載っていて、
暗くなってからも一人でいることの多い妻のことがほんの少しだけ心配になった。

**********

「またですかぁ?」

若い刑事が間の抜けた声を出して顔をしかめた。

ここのところ、この管轄では、昼間自宅に一人きりの女性が薬を飲まされ眠っている間に指を切り落とされる、
という気持ち悪い事件が続いていた。

使われた薬はまだ断定できていないが、一時的に記憶を失くす作用があるらしく、
どの被害者も、事件前後の記憶がすっぽり抜け落ちていた。

そんなことで、捜査はなかなか進展しないまま、被害者の数だけが増えつづけていた。

「きっと、頭のイカレタ野朗の仕業だ、行くぞ!」

**********

彼は今夜も遅いようだ。
毎日仕事仕事と言って、一緒に夕食をとることが無くなったのはいつからだったろう?
私は一人で食べた夕食の皿をシンクに運んで、水道の水を出しながら、
あの日のことを考えていた。

あの日、たまたま訪ねたのは、高校時代の同級生の家だった。
昔から何でも自慢するタイプの女性だったけれど、
主婦となってその態度には拍車がかかっていた。

仕事などどうでもいいからすぐに帰ろう、と思った矢先、
彼女が最近ご主人に買ってもらったという指輪の自慢をしはじめた。

どこにでもあるような指輪などちっとも羨ましくはなかったが、
彼女のご主人が結婚記念日をちゃんと覚えていて、
プレゼントを贈っていることが羨ましかった。

指輪を誉めたことに調子づいた彼女は、その後、
自分達がどんなに仲が良くて幸せな暮らしをしているかを長々と話しだした。

吐き気がするほどうんざりとしながら、高校時代にも同じようなことがあったことを
思い出していた。
そして、聞いているうちだんだん、殺意にも似た嫉妬と憎しみの念が沸いてきた。

だから、もう一度彼女を訪ねて……

その後のことは、まるで映画でも見ていたように現実感がなく思えるのはなぜだろう?

すぐに見つかって咎められると思っていたのに、誰も私を疑わなかったから、
私は中毒患者のように、「ソレ」を繰り返している。

もしかしたら、はやく夫が気付いて叱ってくれることを望んでいるのかもしれない。

********

今夜も最終電車になってしまった。
今日は何か忘れていることがあるような気がする。
喉元まで出掛かっている事柄が思い出せないのは、気持ちが悪いものだ。
電車を降り、バスがなくなってしまった自宅までの道のりを歩きだした。

もう12月か、そろそろコートが必要だな。
深夜の歩道は冷え切っていて、足元から這い上がってきた冷気が身を震わせた。
自宅が見えてくると、珍しく、部屋に明かりが点いていた。

明かりのある部屋へ帰るのは、やはり嬉しいものだな、
軽い笑みがこみ上げたとき、なかなか思い出せなかった大切なことを思い出した。

今日は、僕らの結婚記念日だった……。

新婚の頃は、こんなに素晴らしい日を忘れる奴がいるなんて信じられないと思っていたものだが、
こうして当の本人がすっかり忘れてしまうのだから困ったものだ。
僕は自嘲気味にもう一度笑った。

すぐ妻に謝って、週末は久しぶりにふたりで食事にでもでかけよう。
そう考えながら、自宅のドアを開けた。

「お帰りなさい、あなた。ね、見て、今日はツリーを飾ったのよ」
リビングから明るい声がして、さっきまで点いていた明かりが消え、
代わりに点滅するツリーの電飾が光るのがわかった。

リビングの真ん中に置かれた大きなツリーには電飾と一緒にその明かりを反射して
キラキラと光る小さな飾りがいくつもついていた。

「綺麗でしょ、あなた」

「ああ、綺麗だね」

「あなたがそう言ってくれて嬉しい!」

妻はにっこりと微笑んで言ったが、その目は僕を通り越してどこか遠くの方を見ているようだった。

慌てて今日のことを謝ろうと口を開きかけたとき、妻がまたリビングの明かりを点けた。

「!!」

リビングに明かりが点くと、電飾に反射して光っていたのが、
色とりどりの指輪だったことがわかった。

どれも、すべて、指にはまったままの……

僕は言葉を失って、ただその場に立ち尽くした。
妻は、視線を宙にただよわせたまま、にっこりと微笑んでいた。

**********

「あんな大きな家で何不自由なく暮らしている奥様の犯行だったんですねぇ」

若い刑事は首をかしげながら、先日の調書を読んでいた。

「切り取った指をツリーに飾ってたなんて、やっぱりイカレちゃってたんだろうけど、
どうしてそんなことしたんでしょうねぇ?」

「おまえ、ウサギは寂しいと死んでしまう、っていう話を知ってるか?
彼女もきっと寂しかったんだろうなあ。
仕事仕事で結婚記念日さえ一緒に食事できない夫と暮らしているのが」

「亭主元気で留守がいい、っていうんじゃないんですかね?」

「まあ、まだ彼女もいないお前なんかにはわからないかもしれないな」

俺は笑いながらそう言ったが、こんな事件がまたいつ起ってもおかしくないような気がしていた。

たった一つ、救いがあったのは、奥さんを自首させた夫が、
その後、奥さんの好物を持って毎日面会に来ていることだろうか。

彼女はやがて病院に移されることになるだろう。

夫は、精神を病んでしまった彼女が、元の心と笑顔を取り戻すまで
ずっと彼女の傍にいるつもりだ、と言っているそうだ。

このショートストーリーは、ウオッチコレメールマガジン「ブリリアントタイム」に掲載されています。

ショートストーリー, リスタート

『砂時計』は、ショートストーリー『三分間の続編です。
独立した作品なので、単独でもお楽しみいただけますが、よろしければご一緒にどうぞ。

 

 

窓から入り込む空気が冷んやりしている。
三日降り続いた雨が上がって、秋が急に深まったようだ。

コトッ。
白いポットにお湯を注いで、砂時計をひっくり返した。

柔らかなダージリンの香りを感じながら、音も無く滑り落ちる砂を見てい
ると、とても不思議な夢を見たあの日のことを思い出す。

突然の事故で逝った恋人とのリアルな結婚生活の夢は、その後の私の生き
方を変えた。

―新しい幸せに向かって歩き出す努力をしないといけないよね。―

夢の中の恋人が、私に向かってそう言ったから。

ずっと断り続けていたお見合いの話を受けてみようと、「会ってみるわ」
と電話した時の、実家の母の喜びようは、大変なものだった。

重い沈黙に支配されたお見合いは、結局失敗だったけれど、私がこの世に
いない恋人を思い続けることをやめて、もう一度前を向いたことが母には
とても嬉しかったようだ。

もちろん、恋人のことを忘れることは出来なかったけれど、それまでのよ
うに、恋人がいなくなった悲しみばかりを思い出して反芻することは無く
なった。

女友達からは、優しい表情になったと言われるようになり、社内の男性た
ちからも気軽に声をかけられるようになった。

これまでの自分が、人を寄せ付けないような雰囲気を纏っていたことを
初めて知って少し驚いた。

それでも、次の恋が簡単に見つかったわけではなかったし、日々の生活は
相変わらず単調だった。

けれど……

落ちきった砂時計を確認して、ティーコージーをそっとはずした。

夕日を飲み込んだ海のように美しく澄んだオレンジ色が、白いティーカッ
プを満たしていく。

上品な香りに顔を上げて、彼が「ありがとう」と手を伸ばした。

今、カップの湯気の向こうには、愛する人の眼差しがある。

彼と出逢ったのは、去年の秋。

もう決して恋は出来ないと思い続けてきたはずの私が、彼にひと目で心を
奪われたことは、自分でも信じがたい衝撃だった。

そして、彼もまた同じように、私にひと目惚れだったと聞いた時、この世
にはやっぱり神様がいて、頑張っている人にはご褒美もくれるし、奇跡は
人間が考えているよりもずっと沢山起っているに違いないと確信した。

彼は、暗く後ろ向きだった頃の私の話や、長く引きずっていたかつての恋
人の話を、途中で遮ることもせず、じっと聞いてくれた後、「これまでよ
く頑張ってきたね」と優しく頭を撫でてくれた。

彼の胸に顔をうずめて、暖かな匂いを吸い込むと、張り詰めていた心が溶
け出して、ふいに涙が溢れてきた。

涙はいつまでも止まらなくて、私はそのうちわあわあと大きな声を上げて
泣いた。

ひとしきり泣いた後、泣き疲れた私の前に、彼が差し出してくれたダージ
リンティは、これまで失ったものをみんな取り戻すように、心と体に満ち
ていった。

「ねえ、砂時計ってさ……」

大きな手で玩んでいた砂時計をもう一度ひっくり返しながら、彼が話しか
けてきた。

「もうお終いだって思っても、こうしてまたひっくり返せば何度でもやり
直せるんだよね。何だか人生と似ていると思わない?」

もう一度ひっくり返せば何度でもやり直せる……

本当に、本当にそうかもしれない。

もう一度ひっくり返してやり直す勇気さえ出せば。

彼にひっくり返された時計の砂は、またさらさらとこぼれだして、新しい
時を刻み始めた。

彼は何度も砂時計をひっくり返しては、子供のように遊んでいる。

もうすぐ一緒に生活を始めることになっている、この無邪気な彼の笑顔を
見ながら、私は、ダージリンの甘い香りと幸福感で満たされていた。

ショートストーリー, リスタート

「本当にいいの?」

自分だってすすめていたくせに、いざ、彼女が「決めた」と言うと、
大きな心配が頭をよぎって、再確認をしたくなる。

「いいのよ、もう、決めたから。」

他人事とは思えないほどの切なさが湧き上がってくるのは、
彼女が手放そうとしているこの恋を、始まりからずっと見ていたから。

大恋愛だったよね。

お客を装って、興味もない商品の説明を、何度も聞きに行ったっけ。
彼のいるお店に寄るために、通勤ルートも変えたっけ。
いつしか常連客になって、
こっそり見つめ合うようになって、
たくさん話をするようになって、
最初のデートに誘ったのは、どちらからだったかしら?

あんなにモテてた彼が、彼女だけのものになるのまで、
そんなに時間はかからなかった。

ちょっとした余所見さえ許さなかった頃の情熱、すごく羨ましかったのよ。

時間がたくさん流れたのね。

人の気持ちは変わるものだと、よく知っていたはずなのに、
思い出の中の情景が、次から次へと溢れだして、
納得するのにちょっと手間取る。

本人はもう、ちゃんと納得しているのに、ヘンね。

いつ頃からだったのかしら?
二人の生活が、悩みや苦しみに包まれるようになったのは。

私なんかには理解しきれない、いろんなことがあったのでしょうね、
少し痩せて疲れた笑顔が、痛々しい時もあった。

たくさん笑って、たくさんキスして、たくさん泣いて、
たくさん怒って、たくさん話し合って、たくさん……

いろんなたくさんを乗り越えて、とうとう心を決めたのね。

ご主人からも、報告の電話がありました。

僕が幸せにしてあげられなかった彼女のことを、どうぞよろしくお願いします、と。
これからもずっと、彼女を見守ってやってください、と。

ご主人のこと、少し見直しました。

彼女が彼と一緒に過ごしたたくさんの時間は、
決して間違っていなかったと思う。

「いろいろと心配かけてごめんね、ありがとう」

そう言って微笑んだ笑顔は、まるで恋の始まりを告白したあの日のように晴れやかで……

さよならの向こう側には、きっと、新しい幸せが待っているのだと思う。

 

このショートストーリーを掲載のウオッチコレメールマガジン「ブリリアントタイム」は、
隔週金曜配信中です♪

ショートストーリー, バレンタインデー, リスタート

バレンタインの直前に失恋した。

デパートで3時間も並んで、ベルギーから来日している有名ショコラティエの
1粒550円もするチョコレートを買い終えた直後のことだった。

2年10か月も付き合ったというのに、最後は電話一本だなんて……。

私は昔からいつもこうだ。

高校2年の春、初めてできたカレと別れたのはクリスマスイブだったし、
遠距離恋愛していた恋人の浮気を知ったのは、バースデイの前日だった。

そう言えばあの時は……

納得できる理由も聞けないまま電話を切ってしまったせいか、
忘れていたはずの苦い想いや、悲しい気持ちがぶり返してくる。

過去にも何度も味わった、苦しくて切ない日々が蘇る。

またあんな時間を過ごすなんて……
だめだ、耐えられそうにない。

……。
……そうだ!もう死んじゃおう。

ふと思いついたのは、自分でも思いがけないアイデアだったけれど、
これを実践すれば、もう辛い時間を過ごさなくていいのだと思うと、
不思議な心地良さが感じられた。

ちょうど、このビルには屋上庭園がある。

エレベーターに乗って屋上庭園に行くと、
人目を盗んで柵を乗り越え、いつでも飛び下りられる体勢をつくった。

ほんの少し我慢すれば、もう二度と辛い目にあったりはしない。

1・2・3!
ギュッと目をつぶって飛び出すと、体がふわりと浮いた気がした。

ドン!
すぐにそんな音が聞こえて、記憶が無くなるはずだ。

……。

……。

……?

死の直前、時間は湾曲して流れの早さを変えると聞いたことがあるけれど、
それにしても、長い。

いくらなんでも、もう地面に激突していい頃だ。

おそるおそる目を開けてみると、周りは白いもやに包まれ、
都会の景色も、近づいているはずの地面も、どこにもなかった。

私の体は、何もない空間に浮いていた。

「君はそんなに簡単に死んじゃうんだ」

「あなた、誰?」

「僕は、神様。……まだ半人前だけどね」

「神様?にしてはイケメンね」

「ありがとう、よく言われるよ」

きっとここは、天国に違いない。

私の好みのど真ん中なルックスの神様がいる場所なんて、
夢の中か天国以外に考えられない。

「まだ死んでないよ」

私の考えを見透かすように、イケメンの半人前神様が言う。

「君、まだ死んでないから」

「どういうこと?」

「さっき言ったでしょ、僕はまだ半人前の神様だから、
一人前の神様になるためには、死ぬにはまだ早すぎる人間を、
10000人助けて、世の中の役に立つようなことをさせなきゃいけないんだ」

「それで私は何人目なの?」

「聞いて驚くなよ、記念すべき10000人目さ!」

「マジで?」

「ああ、マジで」

「じゃあ、あなた、もう一人前の神様になれたってこと?」

「いや、そうじゃない。ここからが大変なんだけど、
助けた人間が寿命を全うするまでの間に、
しっかり世の中の役にたってくれなくっちゃノーカウントなんだ。
実は、君の前に助けた10000人目の人間は、世の中の役に立てなかった。
だから、僕はまだ半人前。
僕が人間を助けることより難しいのは、助けた人間が強い心で生き抜いて、
世の中の役に立ってくれることなんだ」

「じゃあ、私に、強い心を持って世の中の役に立て、と?」

「そう!」

イケメン半人前神様は無邪気な笑顔で大きくうなづく。

その笑顔が本当に好みのど真ん中で、
さっき失恋したばかりということさえ忘れそうになる。

「ってことは、私が世の中の役に立てるよう、
あなたは何かサポートしてくれるの?」

「もちろん!君が生きている限り、ずっと見守って応援してるよ!」

胸を張って答えるイケメン神さまは、思い出したように続ける。

「ああ、ただ、僕のこと、君の方からは見えないかもしれないけど……」

「なーんだ。がっかり。あなたが人間で、私の恋人になってくれるなら、
どんなことでも頑張れるのに」

こんなあり得ない状況の中だと、普段なら決して言えないような台詞も
スラスラと言うことができる。

「僕はいつも君の傍にいるよ。見えないけど、感じてよ」

そう言いながらイケメン半人前神様は、私の右手首をぐっと掴む。

彼が指を離すと、右手首には腕時計をはめたように
くっきりと赤い痕が残った。

「ちょっと痛かった?ごめんね。これ、僕が傍で応援しているしるし」

いたずらっぽく言う顔が可愛くて、どきどきした。

「君が死ぬまで頑張ってくれるなら、僕も一緒に頑張れる。

もし、君が世の中の役に立って寿命を全うしてこの世を去る時には……
あ、いけない!時間だ!」

ドン!!

さっきまで感じられなかった重力が突然体に戻った気がした。

「大丈夫ですか?」「しっかりしてください!」

肩を揺さぶられて目を開けると、そこは屋上庭園だった。

体のすぐ横にある柵の向こうに、よく晴れた空が見えた。

私、どうしてここにいるんだっけ?

柵のところに、チョコレート店の紙袋があるのを見て思い出した。
柵を超えようとして、貧血でも起こしたのだろう。

ふふ。それにしても、失恋のショックでイケメンの半人前神様に
救われる夢を見るなんて……。

「すみません。もう大丈夫です」

起き上がろうとして手をついたとき、右手首に鈍痛が走った。

見るとそこにはまるで時計をはめたようにくっきりと赤い痕が。

まさか!?

でも…… もし、あの不思議な夢が本当の出来事だったとしたら、
私はいつでもイケメン半人前神様に護られていることになる。

そして、彼の神様昇格は、私の命の使い方にかかっていることになる。
彼は最後に、いったい何を言いかけたのだろう?

……。

……そうだ!

私がちゃんと世の中の役に立って、天寿を全うしてこの世を去る時には、
彼に美味しいチョコを贈ろう。

失恋ぐらいで死んでる場合じゃないな。

さあ、頑張って生きなくちゃ!

 

このショートストーリーを掲載のウオッチコレメールマガジン「ブリリアントタイム」は、
隔週金曜配信中です♪

ショートストーリー, リスタート

※このストーリーは、「川に降る星(後篇)」です。

「川に降る星(前篇)」はこちらです。

年が明けて正月が過ぎ、見たこともないような高額賞金を受け取って、通帳に記載された0の数を数えていると、気が遠くなりそうだった。

お金さえあれば、年末に会った旧友達のように、お洒落をして旅行に行き、悩みごとなどひとつもないように笑いさざめいていられるのだと思った。

銀行の帰り道、たまたま目に入った宝石店に立ち寄ってみた。

以前ならば、そこに宝石店があることさえ気付かなかったかもしれない。

宝石を買うような身なりではない良子を見て、「いらっしゃいませ」と言ったきりこちらを見ようともしない店員に声をかけた。

「このエメラルド、見せていただけませんか?」

店員は、億劫そうな様子を隠そうともせず指輪をショーケースの上に取り出した。

良子は、手に取ったエメラルドを指にはめて目の高さにかざしながら、よそを向いている定員に言ってみた。

「これ、いただくわ」

驚いた顔ではじかれたように近寄ってきた店員の後ろから、店長と思われる男が駆け寄ってきて、店員たちの対応は手の平を返したように丁寧になった。

包装されたエメラルドを受け取った後、店長と店員全員の最敬礼を受けながら表に出た。

良子はわずか15分で、これまでの生活費3か月分にあたる金額の買い物をし、その快感に酔いしれていた。

良子の中で、長い間ずっとせき止められていたものが、音をたてて流れだした。

それからの良子の生活は、目を見張るほど派手になった。

小さな宝石店の店長は、電話一本でいつでも飛んでくるようになった。

もともと整った顔立ちだった良子は、高級な服を身につけ化粧をするようになると、見違えるように若々しく見えた。

年末にはあんなに羨ましく思えた旧友達と会っても、もう気後れするどころか、バーゲンで買った古いデザインのブランドバックを後生大事に抱えている彼女達に憐れみさえ感じた。

そんな生活を続けるうちに、近所や友人達から向けられていた羨望の眼差しはやがて嫉妬の眼差しに変わり、そのうち、軽蔑の色までを浮かべるようになっていた。

それでも、良子は、派手に浪費する生活に溺れ続けた。

冬が終わろうとしているある日、アメリカに行っていた三女が帰国した。

空港に出迎えに行ったすっかり変わってしまった良子の姿を、娘は見つけることができなかった。

「裕子!」

良子を見て驚いた娘は、しばらくの間「ただいま」さえ言えないで絶句していた。

良子の指には大きな宝石がいくつも着けられており、羽飾りのついたカシミアショールの下からは、強い色合いのシルクブラウスが覗いていた。

ピッタリと体に張り付いたロングスカートも、10センチもありそうなピンヒールも、母にはちっとも似合っていない、と裕子は思った。

「おかあさん、その格好……」

「裕子を出迎えるためにお洒落してきたのよ」

宝くじが当ったことは聞いていたが、母がこれほどまでに変わってしまったとは知らなかった。

姉達が心配するのも無理はない、と思った。

裕子も姉達も、母の当選金など、少しも当てにはしなかった。

当選がわかってすぐに、住宅ローンの肩代わりを申し出た良子を、長女は気持ちだけで十分だと断り、マンションを買い与えようとする良子に、次女も、いつか頭金だけ貸してくれれば良い、と返事した。

それは、三姉妹が皆、母がどれほどの努力と苦労を重ねて自分たちを育ててくれたかをよくわかっていたからであり、いくらお金を使っても取り戻せないたくさんの時間を、母が自分達のために費やしてくれた、と心から感謝していたから。

けれど、何かにとりつかれたように浪費し続ける母から、昔の面影が消えていくのを見るのは辛いことだった。

裕子は思い切って母に言った。

「お母さん、その洋服もお化粧もあまり似合っていないよ。孔雀みたいに飾り立てたお母さんより、ジーンズにエプロンで働いていたお母さんの方がずっとずっと素敵だったわ!」

「お姉ちゃんたちも、きっと、同じ気持ちだと思う……もう一度、前みたいなお母さんに戻って!」

瞬間、良子の顔から笑みが消えた。

裕子の真剣な眼差しから目が逸らせないまま、良子の時間は止まってしまった。

良子があらためて見詰めた裕子は、シンプルで上品な格好をしていて、胸元にたった一つだけ、小さなダイアモンドが光を放っていた。

清潔感がただよう裕子の美しさを、とても眩しく感じた。

それに比べて自分ときたら……

良子は自分が身につけているいくつもの宝石が、急にちぐはぐなもののように思えてうつむいた。

良子の中で、轟々と音を立てていた流れは、急速に静かになった。

春風が心地よい夜空の下で、良子はこの数ヶ月の出来事を振り返っていた。

あれほどの大金を手にしたというのに、3人の娘それぞれに、ローンの返済額の半分と、マンションの頭金と、イギリスへの留学資金を無理やり押し付けたら、良子の手元には、わずかな貯金しか残らなかった。

あらためて眺めてみると、短い間に良子が買い漁った宝石たちは、どれも派手過ぎて良子の細い指には似合わないように思えた。

バックの中に無造作に入っている、色とりどりの宝石達を指先でいじりながら、この数ヶ月間で、一生分以上の贅沢をしてしまったわ、と、小さな笑いがこみ上げてきた。

良子はバックの中にある宝石を、その手で掴めるだけ掴むと、空に向って高く高く放り投げた。

真っ黒な空に飛び出した宝石たちは、弧を描いて川の中へと降りそそいだ。

それは、まるで、空から降ってきた星のように、キラキラと煌きながら、水の中へと消えていった。

 

このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。

ショートストーリー, リスタート

「ママ、見て!川にお星様が降ってるよ!」

電車の窓に顔をつけて外を眺めていた子供が、川の向こうにかかる橋を指差した。

満天の星空を仰いで、良子は、これでよかったのだと考えていた。

静かに流れる眼下の川には、煌く星が映りこんで、川の中でも無数の星が煌いているように見えた。

あれは、去年の年末のこと……

良子にとって、12月に宝くじを買うことは、年中行事になっていた。

もう何十年もの間、毎年買い続けている。

新聞で当選番号を照らし合わせる度に、やっぱり当るわけなどないんだとがっかりして、良子にとって決して安くはない10枚分の金額を勿体無かったと後悔する。

それでも、また、12月がやってくると、やはり買わずにはいられなくなるのは、心のどこかに、もしかしたら次こそは……という思いがあるからに違いない。

今年は、思い切って20枚の宝くじを買った。

もしも、これが当ったら……そう想像すると楽しい気分になった。

良子の夫は、脳血栓を患って、二年間入院した後、寝たきりの義母と3人の娘たちを残して先立った。

夫を失った悲しみは大きかったが、正直に言えば、どこかで少しほっとしていた。

多感な時期の娘たちを持ち、義母の世話と、夫の看病を同時にこなして行くことに、限界を感じはじめていた時だったから。

夫の保険金は決して多くなかったが、2年間の治療費と生活費で作った借金を全て返し、義母を設備の整った病院に入院させることができた。

諦めていた長女の大学進学と、次女の高校進学を叶えてやることもできた。

けれど、良子が自分のために使えるお金は、一銭たりとも残らなかった。

あれから10年、その間に義母を見送って、長女と次女が巣立って行った。

三女が自分の力を試してみたいとアメリカに飛んだ夜、ふっと肩の荷を下ろして考えた。

いつの間に、こんなにも老けてしまったのだろう?

なりふりかまわず働いて、ずっと必死で生きてきたから、自分の身を構うどころか、自分の姿をゆっくり眺めることさえ、絶えて久しくなっていた。

独りでお茶をすすりながら、久しぶりに昔の友人に連絡を取りたいと思った。

イルミネーションの輝く12月の街で待ち合わせた旧友達は、みなそれぞれにお洒落をしてやってきた。

どこそこへ旅行に行ってきたとか、あの店のなにそれが美味しかったとかいう話題を聞くと、子育てから開放された旧友たちが、自分の時間を謳歌していることが伺えた。

良子は一人だけ取り残されたような気分になって、結婚指輪しかつけていない荒れた手に視線を落とした。

懐かしさに心躍らせるはずだった旧友達との再会は、良子に、不運な歳月を確認させるだけの時間になってしまった。

次の店に移動しようと誘う旧友達と別れて、良子は一人自宅に戻った。

けれど、大晦日の夜、良子は神様から一生分の幸運をまとめて授かった。

とうとう、当ったのである。

年末ジャンボ宝くじの、一等賞金3億円が。

748……

間違いなかった、本当に当っている!

震える手で宝くじを持ち、10回も確認してみた番号は、やはり、一等と前後賞のその番号だった。

「あ、あ、あたったー!!!当ったわ、当った!当った!」

一人小躍りする良子の興奮がおさまるまでには、長い時間が必要だった。

川に降る星(後篇)に続く

ショートストーリー, リスタート

「いよいよ梅雨だな」

低く垂れ込めた雲にむかって大きくひとつ伸びをすると、孝夫は運転席に乗り込んだ。

湿気を含んだ空気のせいで、額にはじっとりと汗が浮かんでいる。

制帽をかぶり直して白い手袋をはめると、ハンドルに手を置いた。

この路線の運行も今日が最後だと考えると、感慨が沸いてくる。

待つ人もまばらな停留所には、“この路線は6月10日をもって廃止されることになりました。”
と書かれた紙が貼りつけられ、様変わりした窓の外の景色とあいまって、孝夫はつい涙腺が緩みそうになった。

あと5年で定年を迎える孝夫より先に、この路線がなくなってしまうとは……。

かつては通勤の足として重要だったこの路線バスも、地下鉄の発達やマイカー通勤の普及ですっかり乗客が減り、
運行する本数を極限まで減らした後、とうとう廃線が決まった。

「次、止まります」

アナウンスのテープを流し、停留所前でブレーキを踏む。

降りていく乗客に「ありがとうございました。お気をつけて」と声をかけても、返ってくる返事は無い。

時代と一緒に、人の心も移り変わっていることを実感する瞬間だ。

あの頃……そう、まだバスの運転手と乗客の間で言葉を交し合うことが普通だった頃、
運転手に成り立てだった孝夫は、この路線の担当になる日をとても楽しみにしていた。

それは、いつも決まった時間に途中の停留所から乗り込んで、終点まで乗って行く美しい女性がいたから。

薄暗い田舎道に差し掛かる終点で降りる彼女に、「お気をつけて」と声をかけ、
「はい、ありがとうございます」と答えてもらう度、いいようもなく幸せな気もちになった。

思い切って挨拶以上の話をしたのは、初めて彼女を見かけてから半年程経った時のことだった。

彼女の務め先が市内の宝飾店だと知ったのは、さらに半年先のこと。

孝夫は数ヶ月後の彼女の誕生日には、そのお店で買ったものを彼女にプレゼントしようと決心し、
昼食まで抜いてお金を貯めた。

けれど、その宝飾店は、孝夫が想像していたよりもずっと高級な店で、
自活している若い孝夫が貯められた程度の金額で買えるのは、
針金のように細いリングの先っぽに可哀相なくらい小さな宝石のついた指輪だけだった。

それでも、孝夫はそれを買って、その場で彼女にプレゼントした。

それから、孝夫と彼女は急速に親しくなって、終点が近づいて他の乗客が皆降りた後の車内は、
二人だけのデートの場所になった。

彼女が降りる間際、こっそりキスをしたこともあった。

本当に良い時代だったと思う。

辺りはすっかり暗くなり、最後の運行も終点が近づいてきた。

すでに、車内に乗客は居ない。

終点の停留所には止まることなく、車庫へ向かうことになりそうだ。

少し寂しくなりながらも、勤務を終えようとしている安堵を感じ初めていた時、
前方の停留所に人影があるのに気づいた。

ゆっくりとブレーキを踏んで停留所の前でバスを止めると、そこに立っているのは孝夫の妻だった。

ドアを開けたバスに乗り込んできた妻は、いたずらっぽく笑いながら、
針金のように細いリングのはまった指を見せた。

家事と育児ともろもろの理由で、あの頃よりずっと逞しくなってしまった妻は、
薬指にはもうはまらなくなったそのリングを小指にちょこんとはめていた。

「この路線、今日が最後の運行だったのね。なんだか寂しくなって、来ちゃったわ」

流れた時は妻の姿も大きく変えていたけれど、孝夫を真っ直ぐ見詰める綺麗な瞳はあの頃のまま、
少しも変わっていなかった。

孝夫は妻のふくよかな手を取ってぎゅっと握ると、あの頃のように少し照れた声で言った。

「ありがとうございました。お気をつけて」

幸せな気持ちでバスを車庫へと回送しながら、孝夫は、妻にもう少し大きな指輪を買ってやらなくては、と思った。

 

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隔週金曜配信です

ショートストーリー, リスタート

ウインドウショッピングするくらいなら、筋トレしていた方がいいという、運動オタクの従妹から電話があった。

待ち合わせたのは、彼女の大学の体育館。

彼女をひと目見たとたん、あれ?と小さな疑問がよぎった。

相変わらずショートカットで、ノーメイクにスポーツウエアの彼女が、以前とはどことなく違って見える。

どこが変わったのかしら?と思っていたら、本人から打ち明けられた。

「お姉さん、私、彼氏ができちゃった」と。

相手はダンベルでも腹筋台でもなく、ちゃんとした人間の男らしい。

しかも、彼女がこよなく愛する筋肉はあまりついていない、細身の男だという。

にも関わらず、彼はこの上なく男らしく、彼女は彼と一緒に居る時、いつも半歩後ろを歩いているのだそうだ。

大股で早足の彼女が、自分より細い男の後ろをしずしずとついて行く姿を想像すると少しおかしかった。

それでも、逞しい腕でダンベルを上下させたまま頬を赤らめ、今度のデートでは女らしい服を着たいからショッピングに付き合って欲しいと切り出す彼女は、少女のように可愛らしく見えた。

やっぱり、恋は凄いと思う。

彼との出会いや胸のときめきを話す従妹を見ながら、そういえば自分にもこんな時期があったと、遠い夏の日を思い出した。

私にも、5年間付き合っている彼がいる。

ただし、その関係は年々希薄になっていて、今はもう、“彼”という呼び方が正しいのかどうかさえわからなくなっている。

それでも私は、彼から贈られた細いベルトの腕時計を今もはずせないままでいる。

偶然から始まった彼との恋は、瞬く間に燃え上がって、彼のことを思うだけが胸が痛いほど苦しくて、同時にとてつもなく幸せで、これまで味わったことのないような不思議な気分が体を満たした。

私たちはお互いをとても大切に思い、何よりも必要と考えていたけれど、当時、私には恋人が居て、彼には……妻が居た。

それでも、私たちはお互いの気持ちを抑えることが出来ず、邪魔になった倫理観を捨て、時間をやりくりしてデートを重ねた。

人に言えない恋を終えるチャンスが訪れたのは、彼の転勤が決まった2年前。

私は彼との別れを決心して、待たせ続けた恋人との結婚を果たそうとしたけれど、彼が差し出した小さな箱で、簡単に気持ちがくじけた。

その時小箱に入っていたのが、今も私が着けているこの時計。

「離れていても同じ時間を過ごそうね」

彼の言葉に涙で頷いて、せっかく訪れた決別のチャンスをふいにした。

私はとうとう恋人と別れ、彼は妻との結婚を続けたまま遠距離不倫が始まった。

距離の離れた彼からの連絡は少しづつ減り、別れのチャンスは何度もやってきたけれど、私から電話すればこの上なく嬉しそうにし、変わらない愛を囁く彼の声に、連絡を止めることができなかった。

結局私は連絡を取り続け、短い逢瀬の時には、貪るように愛を確かめあった。

このままじゃいけないと思いながらも、どうしても気持ちを切り替えることが出来ず、新しい恋をすることもなく、彼からの連絡だけを待ちながらいくつも季節が巡っていった。

従妹はダンベルを振り回しながら、上気した顔で彼のことを話し続けている。

なんて幸せそうなんだろう。

思わずため息が出そうになって、手元の時計に目をやろうとした時、風を切る音がして何かが目の前に迫ってきた。

バンッ!!

迫っていたのは、白いバレーボールで、咄嗟に顔を庇った左手に当たって床に転がった。

「すみません!」

駆けてきた男子学生が長身を二つ折りにして謝っている。

「怪我はありませんか?」と心配する学生に、「大丈夫よ」と言った時、手首の時計の風防にひびが入っているのに気がついた。

「あ、時計が……」

学生は反射的に私の手首を掴むと私にぐっと近づいてきた。

「本当にすみません!」

手を掴んだまま学生が頭を下げたので、覆いかぶさられるような格好になって、私は少し赤くなった。

「この時計大切なものでしょうか?」

澄んだ目で覗き込まれると、今度は少しドキリとした。

「俺、一人暮らしで貧乏なんですけど、バイトして必ず弁償しますから、お姉さんの連絡先を教えてください」

長身の学生のストレートな謝罪に戸惑う私を、従妹がニコニコしながら見ている。

私の顔の赤みが怒りのせいではないことも、長身の学生が私好みのルックスであることも、従妹には見透かされているようだ。

ダンベルを振り下ろしながら、従妹が顔見知りらしいその学生に言った。

「お姉さんの時計、高いのよ。高円寺君のバイト代じゃあ弁償するのに3年はかかるわね。とりあえず、週末に食事でもしながらお詫びしたら?」

細いベルトの時計の針は、少し震えながらまだ時を刻んでいる。

でも、これは、ひびの入った時計などさっさと捨てて、新しい時計に買い換える、良いチャンスなのかもしれない。


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。

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こんなこと、信じられない。

目の前を突然、真っ黒な布で遮られて、さっきまで見えていた景色が何も見えなくなってしまったような気分だった。

順調に歩いていた道の少し先が、断崖絶壁ででもあったかのように、その場に立ち尽くすしかなかった。

どんな避妊も、100%確実ではないことを、今手にしている小さな検査用スティックが示していた。

私たち夫婦は、子供を作らない約束だった。

幼い頃からの辛い記憶が、私から子育ての自信と意欲をすっかり奪い去っていた。

彼は、しぶしぶながらこの約束に同意し、これまでずっと、子供のいない穏やかな幸せが続いていた。

なのに……

先月から続く体調不良を相談した友人から強く勧められて、「妊娠ではないこと」を確信するために検査薬を買った。

私のおなかの中には、新しい命が宿っていた。

私の母は、まだ若いうちに私を身ごもり、いくつかの夢を諦めて父との結婚を選択した。

けれど、それは、彼女の不幸の始まりで、ギャンブルにも女にも目のない父が母子を顧みることことはなく、生活は日に日に苦しくなっていった。

溢れる後悔に押しつぶされないよう、彼女はその不幸を全て、彼女の娘、つまり私のせいにすることでようやく生きていくことができた。

「おまえさえ出来なければ……」母が吐き出すように言うこの台詞を、物心ついたころから、何度耳にしたことだろう?

私は、少しでも母に気に入られようと、たくさん勉強をして、家のこともよく手伝い、近所でも評判の良い子になった。

けれど、どんなに良い成績を取っても、まわりの人たちがどれだけ誉める娘になっても、母はあの台詞を言い続けた。

高校を卒業すると、奨学金で大学に通いながら一人暮らしをはじめた。

一人暮らしは自由で楽しく、学校ではたくさんの友達ができた。

心にゆとりの出来た私が、久しぶりに母を訪ねたとき、母は強いお酒を飲みながら、また、あの忌まわしい台詞を吐いた。

「おまえさえ出来なければ……」

私は、絶対に子供なんて作らない!このとき、そう固く決心をした。

あの日から7年、母には一度も会っていない。

結婚したことは葉書一枚だけで知らせ、連絡先は記さなかった。

耳について離れない、あの台詞を二度と聞きたくなかったから。

3ヶ月ほど前に、伯母から、母が父と正式に離婚して、小さな町工場の事務員として働くようになったと知らされた。

母に会ってみようか?

一瞬そんな考えがよぎったのは、気持ちが乱れているせいに違いない。

彼に知られてしまえば「産んで欲しい」と言われるに決まっている。

明日にでも病院に行って、何もなかったことにしなければ。

スティックを握ったまま、あれこれと考えているところへ、電話のベルが響いて、我に返った。

電話は、伯母からだった。

母が、工場で倒れたという、検査のため入院させた病院で末期がんが発見され、医者がすぐに家族を集めるようにと言っているらしい。

ちらっとでも、母に会ってみようなどと考えたのは、虫の知らせだったのだろうか。

気持ちの整理がつかないまま、教えられた病院に行くと、長い間会っていなかった母は、ふたまわりほど小さくなって、ベッドの上で眠っていた。

もう長くないというのが、ひと目見ただけではっきりわかった。

恐る恐る近づいて母の手を握ると、母はゆっくりと目を開き、力ない視線を私に向けた。

「おかあさん、ごめんなさい!」

自分でも驚くような言葉が飛び出し、涙が一緒に溢れ出した。

母の口元がひらき、「謝るのは私のほうよ」と弱々しい声がした。

ごめんなさい、ごめんなさいと泣きじゃくる私の頬をなで、少しだけ微笑んで目を閉じた。

「ごめんね……」

目を閉じたまま、聞き取れないくらい小さな声でつぶやいて、涙が一滴流れ落ちた。

その晩、母は息を引き取った。

強く握ったままでいた母の手を、胸の上に置こうとしたとき、薬指に光っている指輪に気付いた。

離婚しても、はずさないでいたのだろうか?

母がずっと身につけていたこの指輪を形見にしよう、そう思ってそっと抜き取った。

その時、なにげなく目をやった指輪の内側に、視線が釘付けになった。

そこには、私の名前が、誕生の日付と一緒に刻んであった。

母が離婚してもはずさなかったその指輪には、私の名前が刻まれていた。

母は、私の誕生を、本当は喜んでくれていたのかもしれない。

あんな台詞を言ってしまう自分を、ずっと責め続けてきたのかもしれない。

冷たくなっていく母の手を、もう一度握り締めながら、強く念じるように報告をした。

「お母さん、私、あかちゃんが出来たのよ!」

「あなたならきっと良いおかあさんになれるわよ」

穏やかな母の顔は、そう勇気付けてくれているようだった。


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。

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「おはよう、澄香」

眠気を覚ます珈琲を飲みながら、キッチンカウンターに置いたままの腕時計に挨拶をする。

ひとり暮らしをしていると、よく独り言を言うようになると聞いたことがあるが、本当だなと思う。

澄香が出て行ってから一年。

時々彼女の時計に話しかけるようになったのは、いつ頃からだったろう?

「行ってくるよ」

また時計に声をかけて、これじゃあ連れ合いに先立たれたじいさんが仏壇に話しかけてるみたいだな、と苦笑した。

澄香は半年前まで僕の妻だった女性。

僕と同じコンピューターエンジニアで、松たか子似の美人だった。

僕達の結婚生活はとても楽しかったし、何の問題もなく上手くいっていると思っていた。

少なくとも、僕の方は……。

あの日、あのメールさえ読まなければ、僕達は今も続いていたのかもしれない。

いや、あのメールを読まなくても、遅かれ早かれ別れが来たことは疑いない。

僕は澄香という女性と、ちゃんと向き合っていなかったのだから。

その日、僕は久しぶりの休日を自宅でだらだらと過ごしていた。

仕事先の澄香から電話が入り、至急調べて欲しいメールがあると言われて、これまで触ったことのなかった彼女のパソコンに触れた。

必要なメールを探しているとき、一通だけサブジェクトの無いメールを見つけ、なんとなく気になって、後でこっそり読んでしまった。

それは、友人との他愛ない会話のような内容だったけれど、なぜかその後ずっと、そのメールが気にかかって仕方なかった。

半月後、澄香が出張で自宅にいない夜、押さえ切れなくなった好奇心に駆られて、とうとう彼女のパソコンを調べるという愚行に出た。

そこには、僕らエンジニアなら簡単に解けてしまうパスに守られた隠しファイルがあり、中には澄香がひとりの男とやりとりした夥しい数のメールがあった。

「やっぱり……」

思わずもらした自分の声にはっとした時、僕の両手は、嫌な汗でじっとりとしていた。

全てのメールを読み終えた後、僕は呆けた老人のように、自分のしていることがわからなくなった。

翌日、仕事から戻った澄香を着替えさせもしないまま座らせて、メールのことを問い質した。

突然の出来事に驚き、知らないと嘘をつこうとする彼女に、印刷しておいた大量のメールを突きつた。

言葉を失っている彼女の頬を、初めて思いっきり打った。

涙で濡れた頬に、判を押した離婚届を投げつけながら、「荷物をまとめて出て行け」と啖呵を切って外へ出た。

ぶらぶらと数時間を潰して部屋に戻ってみると、澄香の姿はもうなかった。

綺麗に片付けられたキッチンカウンターの上には、結婚してすぐ僕が彼女に贈った腕時計だけが、ぽつんとひとつ置かれていた。

澄香から長い手紙と捺印した離婚届が送られてきたのは、それから一週間が経った日のこと。

手紙には男との経緯と、僕に対する詫びの言葉が並べてあった。

澄香と特別な関係になったのは、僕の会社の後輩で、何度か自宅にも連れてきたことがある男だった。

街で偶然会って、雑談メールを交わすようになり、そのうち悩み事を相談するようになって……

という、よくあるふざけた話だった。

――あなたに話そうとしても、疲れてるからまた今度ねとやんわり拒否され続けるうちに、いつでも親身になって聴いてくれる彼の方を選んでしまいました。――

確かに僕は面倒な話しは避けたいと思っていたから、そんな一文に思い当たる節がないわけではなかったが、だからといって彼女の行為が許せるわけではなかった。

よく見知った男が澄香と……リアルに想像できるあれこれが怒りをさらに増長し、僕は手紙を破り捨てて、届けをすぐに役所に出した。

時間が経って落ち着いてくると、

別れる前にもう少し澄香の話を聞くべきだっただろうか?

という思いが浮かび、

さらに時が過ぎ去ると、悪いのは彼女ではなくあの野郎だけだったのかもしれないとまで考えるようになった。

その頃にはすでに、社内で思いっきりぶん殴ったその後輩の顔を見るのが嫌で違う会社に移っていた。

怒りが治まり気持ちが落ち着いてくるのと反比例して、澄香への断ち切れない思いが強まり、自分はこうなってもまだ彼女を愛しているのだと思い知らされる日々が続いた。

それでも、そのうち、新しく入った会社に居た、美由紀という事務の女性と、少しずつ親しくなっていった。

ある夜、僕は思い切って、美由紀に澄香とのことを全て話し、僕らはさらに深い関係になった。

そして数ヶ月前からは、美由紀はこの家で僕のために夕食を作るようになっていた。

最近では、食事を作るだけでなく、部屋の掃除もするようになり、家の中にあるものは、何でも自由に触るようになった。

けれども美由紀は、カウンターの上に置いてあるあの腕時計だけには、決して触れようとしなかった。

僕はいつの間にか習慣になっていた澄香の時計への挨拶を、美由紀がいる時にもついうっかり口にしてしまったことさえあった。

それでも美由紀は、何も聞かなかった振りをしてくれた。

ドアを出て歩きだした僕の頬に涼やかな風が当った。

もう秋だな……。

あの日のことをまた思い出したのは、秋という感傷的な季節のせいかもしれない。

あれからもう一年が過ぎたことを、改めて意識した。

長くて苦しい一年だったけれど、今は澄香の時計に話しかけるような余裕まであるのだ。

いや、もうそろそろ前妻の思い出に話しかける習慣など、やめなければいけないのかもしれない。

美しく有能だった澄香への、憧れにも似た強い思いは、簡単に消えるものではない。

けれど、僕が彼女に求めていたのは、完璧な妻としての澄香であり、彼女をただの弱い女性として受け止めて愛することはできなかったのだから。

そして、今も……。

風の噂で、澄香はあの後輩と別れ、勤めていた会社も辞めて、フリーのエンジニアとして頑張っていると聞いた。

彼女のことだから、いつまでも後ろを振り返ったりせず、前だけを見て歩いているのだろう。

僕もそろそろ……

そうだ、今夜美由紀を呼んで、あの時計を片付けてもらおうか。

そう思いついた途端、また涼しい風が吹いた。

高く突き抜ける青い空を見上げ、「もう秋だしな」と今度は声に出して言ってみた。