男は手の中のチケットを見て、思わず小さな溜め息をついた。

それは、先週のこと。

「君、25日の夜は空いているかね?」と突然部長に尋ねられ、
「はい、とくに予定はありません」と答えると、
部長が、二枚のチケットを取り出して言った。

「実は、取引先から貰った芝居のチケットがあるんだが、
あいにくその日は野暮用があってね……。
君、奥方でも誘って私の代わりに行ってきてくれないかね?
後で話が出来るよう、パンフレットを買ってきてくれると助かるんだが」

男は芝居になど全く興味がなく、できれば断りたいと思ったが、
「予定は無い」と答えてしまった手前、嫌だとも言いにくい。
結局チケットを受け取って、芝居を見てくることになった。

肩の荷を降ろした顔の部長は、デスクに戻ろうとする男を呼び止め、
機嫌の良い声で付け足した。
「ああそうだ、当日は開演に遅れないよう定時に仕事を終えて帰りなさい」

自分ひとりで行くのならまだしも、妻まで誘わなくてはいけないと思うと、
と男は気が重くなった。
考えてみれば、下の子が生まれてから、妻と二人っきりで出かけたことなど一度も無い。
ましてや二人での芝居見物となると、結婚して以来初めてということになる。
それどころか最近では、仕事の忙しさを理由に、妻とまともに会話さえしていないような気がする。

長く家庭に篭っている妻は、余所行きの服など持っていないかもしれないし、
二人の子供を人に預けてまで二人で出かけることを嫌がりはしないだろうか?

チケットのことを妻になかなか切り出せなかった男は、当日の朝になってようやく事情を話し、
妻にチケットを押し付けるように手渡すと、返事も聞かずに出かけてきてしまった。

夕方、男は、溜め息をつきながら見詰めていたチケットをスーツの内ポケットにしまうと、
席を立ってコートを羽織った。

妻はちゃんと来てくれるだろうか?
やはりもっと早く話をするべきだったのではないだろうか?
今更考えてもどうしようもないことが、頭の中で堂々巡りした。

定時に終えようと思いながら、なかなか切り上げられなかった仕事のせいで、
会社を出るのも遅くなってしまった。
妻がもし開場時間に合わせて出かけていたら、ずいぶん待たせていることになる。
長く待たせたことを咎められるかもしれないと考えて、男はまた気が重くなった。

タクシーで会場に駆けつけると、開演の数分前だった。

チケットを見せて入り口を走りぬけると、広いロビーの隅に女性が一人、
ポツンと立っていた。

男は女性に近づいてみて、ようやくそれが自分の妻であることに気づいた。
緩やかにウエーブした髪は艶やかで、きちんとメークした顔には気品があった。

男の顔を見た妻が、思いがけない言葉を呟いた。

「今日は誘ってくれてありがとう」

急な誘いやギリギリに駆けつけたことを詰られるとばかり思っていた男は驚き、
一瞬言葉を失って、いつもとすっかり違う様子の妻の顔をまじまじと見た。

男に見詰められて上気した頬に、真珠のイヤリングが光を添えて、
妻の顔はとても美しく見えた。

「あ、いや、俺の方こそ……。今日のお前、なんていうか、その、綺麗だな……」

ジリリリリリ……

開演のベルが鳴り響く中、男はさらに頬を赤くした妻の手を取って、
急いで客席に向かった。

**********

「ね、本当にいいの?」

嬉しそうに訊ねる友人に向かって、女は「いいのよ」と請け負った。

12月25日、女はサンタの衣装を着けて、寒さの厳しい街頭に立ち、
ワゴンに乗せたクリスマスケーキを売っている。

女は一週間前に、恋人と喧嘩別れしたばかりだ。

クリスマスの予定がなくなった女は、ケーキ屋でアルバイトする友人に、
彼と過ごすクリスマスをプレゼンとしてやることにした。

友人が、ケーキ屋でアルバイトを始めて以来、
一度も彼とクリスマスを過ごしていないと嘆いていたから。

「メリークリスマス!美味しいケーキはいかがですか?」

大きな声を張り上げながら、先週のことを思い出す。

いつもと変わらない他愛無い喧嘩のはずだった。
なのに、さよならになってしまうなんて……。

涙が込み上げてきそうになるのをぐっと堪えて、もう一度声を出した。

「メリークリスマス!美味しいケーキはいかがですか?」

「メリークリスマス!ケーキをください」

後ろから声がして振り返ると、そこには、喧嘩別れした恋人が。

どうして彼がここにいるの?
なんという偶然だろう?
彼はケーキを買って、いったいどこに行くんだろう?

複雑な気持ちで絶句している女に向かって、彼がもう一度言った。

「可愛いサンタさん、メリークリスマス!ここにあるケーキを全部ください」

「え!?」

「このワゴンのケーキ、僕がみんな買いたいんだ。
ケーキが全部売れてしまえば、君の仕事はおしまいでしょう?
……先週は、ごめん。僕の方が悪かったんだ。
君のいないクリスマスなんて僕にはやっぱり考えられない」

女はさっきからずっと堪えていた涙が、あっけなく溢れだしたのを感じた。

「私の方こそごめんなさい!」

「さ、早く、お店に戻って店長にみんな売れたからあがらせてくださいって言いに行こう」

彼はコートのポケットから3ヶ月分のバイト代が全部入った封筒を取り出すと、
ケーキの合計金額を数え始めた。

「ねえ、でも、こんなにたくさんのクリスマスケーキ、いったいどうするの?」

「そうだな……この少し先のところに、深夜まで営業している私立の保育園があるんだ。
クリスマスでも仕事を休めない親達が小さな子供を預けてるんだよ、
そこの子供たちにプレゼントしに行かないか?
それで余った分は、街行く人達に配ってしまおう」

女は以前からずっと、彼のやさしいところや突拍子もないところが好きだった。
だから、こんなとんでもない計画にも、ニッコリ笑って同意した。

二人がケーキの乗った大きなワゴンを押して保育園に行くと、
保母さんも園児達も、大喜びしてくれた。

半分ほど残ったケーキは、ケーキ店のスペシャルサービスだと言いながら街頭で配った。

驚いた顔で大喜びする親子連れ、孫と食べますと何度も頭を下げるおばあちゃん、
これから彼の家に向かうというOLは、手渡したケーキを宝物のように抱えて帰って行った。
ケーキのお礼にと、年末ジャンボ宝くじをくれたおじさんもいた。

たくさんの笑顔を見ながら、女は彼と自分が本当のサンタさんになったような気分になった。

なんて素敵なクリスマスだろう!

最後の一個を手渡したのは、清楚な真珠のイヤリングやよく似合っている女性と、
芝居のパンフレットを手にした男性のカップルで、
丁寧にお礼を言って去って行く二人の後姿は、微笑ましく寄り添っていた。
ケーキを受け取った二人の薬指に指輪が無ければ、恋愛中の恋人同士にしか見えなかった。

「ね、何年か先、私達もあんなカップルでいられるかしら?」

「もちろん!僕らはきっと、あのカップルが羨むくらい仲睦まじくやってるさ」

すっかり空になったワゴンを二人で運んでいると、彼が突然立ち止まった。

「あっ!」

「どうしたの?」

「自分達のケーキを残しておくのを忘れた!」

「本当!」

二人で顔を見合わせて笑いながら、女は心から幸せだなと思った。

***********

ほんの少しだけ素直になったら、幸せになれた二組のカップル。
でも、どちらのカップルにも、“クリスマスの奇跡”というほどの出来事は起っていない。
それでは、“クリスマスの奇跡”はいつどこで起るのか?

街にあふれていた人々の姿が無くなり、イルミネーションが一つ二つと消えていって、
すっかり静かになった街に、白い雪が振りだした。

しばらく音もなく振り続いた雪が、木々にも道路にもベールをかけて、
夜更けの街は幻想的な美しさである。

“クリスマスの奇跡”が起きるのはこんな時間。

そしてそれは、“あなた”の身に起るのかもしれない。

クリスマスには誰もが皆、奇跡の主人公になるチャンスがあるのだから……。

メリークリスマス!

 

このショートストーリーは、ウオッチコレメールマガジン「ブリリアントタイム」に掲載されています。