今日の彼はいつになく機嫌がいい。
もしかしたら、前から欲しがっていたものが手に入ったのかもしれない。
「沙紀」
彼が弾んだ声で私の名を呼ぶ。
「どうだ、素晴らしいだろう」
わざわざ職人に作らせたというコレクションケースを開けて、愛しげな眼差しを向ける。
「これはね、マニアからも絶賛されている30ミリ・キャリバーを搭載した50年代製なんだよ。
1939年に開発された30ミリ・キャリバーは、『精度のオメガ』の名前を世界に知らしめた伝説的なムーブメントでね……」
オメガのアンティークウオッチを手にした彼は、私の反応などお構いなしに、素晴らしさを語り始めた。
彼の趣味は時計のコレクション。
ジャガー・ルクルト、ユニバーサル・ジュネーブ、バセロン コンスタンチン、ショパール、ロレックス、エルジン、ラドー、セイコー……
超高額品から、おもちゃのような時計まで、それはもう、節操がないくらいに様々な時計を収集している。
私に飲み物を勧めながら、彼はまだオメガを眺めつづけている。
彼の端整な横顔を見ながら、私は、昼休みに総務部の敦子から聞いた話を思い出していた。
「ねえ沙紀、村井部長、社内に恋人がいるって知ってた?」
「えっ?」
沙紀は一瞬、自分のことがバレれいるのかと身を固くしたが、続いた言葉に耳を疑った。
「去年入社した経理部の西本さんですって」
「うそ…… 村井部長はバツイチだから、奥様こそいないもののもう40代の後半よ、西本さんとじゃ親子と言ってもいいほど歳の差があるじゃない」
もっと詳しく聞きたくて敦子にカマをかけてみる。
「でしょ、私も驚いちゃったわ。でも、ほら、村井部長はあの通りイイ男だし、大学を出たばかりの小娘なんてイチコロでしょう
……ここだけの話なんだけど、部長の恋人、彼女ひとりだけじゃないらしいの」
敦子は大げさに驚いて見せた後、もう一度声をひそめた。
「ひとりじゃないって……?」
「秘書課のお局、中田女史とも、営業部のアイドル高橋さんとも付き合ってるみたいよ」
私は思わず絶句して、顔色が変わったであろうことを取り繕うこともできないまま仕事に戻った。
彼に、私の他にも恋人がいることはうすうす感じていた。
花束と引き換えに突然デートがキャンセルされたり、デートとデートの間が一月近くも開いたりすることがあったから。
そういえば、待ち合わせの喫茶店を急に変えたのも、時々目が合うことがあった髪の長いウエイトレスの子と関係があるのかもしれない。
彼には、いったい何人の恋人がいるのだろう?
ようやくオメガを戻した彼が私の目を見つめて言う。
「沙紀、愛しているよ」
彼の目に嘘はない。
でも、きっと、他の女性達にも同じ目をして微笑むのだろう。
抱きしめられた彼の肩越しに、コレクションケースが見える。
昼間、あんな話を聞いても彼から離れられない私の気持ちを、ケースの中の時計たちなら、きっとわかってくれるだろう。
「沙紀……」
<強い力で抱かれたまま耳元で囁かれると、身体から力が抜けていく。
ゆっくりと目を閉じて、彼の背中に腕を回して、いつもより激しいキスをした。