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ブローチ

2018/01/20

引き出しをそっと開けて、今日もそのブローチを取り出してみる。

それは、何よりも大切な私の宝物。
手の上に乗せて頬擦りをすると、ひんやりとした金属の温度が伝わってきた。
「ママ……」
柔らかなハンカチで包んで、また引き出しの中に戻す。 
本当のパパが死んでしまったのは、私が生まれてすぐだったという。

新しい父が来たのは、私が5つの時だった。
ママが新しい父と仲良くするのは、なんとなくイヤだったけれど、

すぐに3人で暮らすことにも慣れた。
なのに……

私が小学生になった夏、ママが突然死んでしまった。
居眠り運転のトラックが歩道に突っ込み、ママはその下敷きになった。
泣きじゃくる私の隣で、父はとても冷静だった。

そして、お葬式の後でたくさんお酒を飲んで暴れた父を、

親戚のおじさんたちがどこかに連れて行ったのを覚えている。
ママが居なくなった後、父はたくさんお酒を飲むと、

私のことをぶつようになった。
そういえば、父がお酒を飲んでいるのを見たのは、

お葬式の日が初めてだった。

父がお酒を飲み始めると、ママはいつも、私に、

隣のおばさんのところに居るように言っていたから。
何度か父にぶたれた後、体についた蒼い痕を見て、

ママにも同じ痕がたくさんあったことを思い出した。

そして、ママも父にあんなふうにぶたれていたのだと知った。
お酒を飲んでいないときの父は優しくて、

宿題を見てくれることもあった。

父はどうしてお酒を飲むのだろう?
今は父がお酒を飲み始めても、外に連れ出してくれる

親戚のおじさん達はいないし、隣のおばさんもどこかに引っ越してしまった。

父がお酒を飲み始めると、私は自分の体を抱くようにして

身を縮めているしかなかった。
父にたくさんぶたれた後、私はいつもこの引き出しを開けて、

大切なブローチを取り出す。

ブローチの冷たさは、腫れ上がった体の痛みを癒してくれた。

まるで、ママの手で優しく撫でられているように……
綺麗な模様のついたブローチの蓋を開けると、中は時計になっていた。

毎朝きちんとねじを巻けば、心臓の鼓動のように規則正しい時を刻んだ。

ママは余所行きの服を着ると、このブローチを胸につけて、

いつも私に見せてくれた。

「あなたのパパの形見なのよ」

そう言うママの目もブローチも、キラキラしていて綺麗だった。
事故に遭ってしまったあの日、

ママはどうしてブローチをしていなかったのだろう?
ママの思い出に浸りながら、ブローチを頬に当てていると、

突然部屋の襖が開いた。

そこにはもう眠っていると思っていた父と、

知らないおじさんが立っていた。

私は慌ててブローチをしまおうとして、手から取り落としてしまった。
それを見た知らないおじさんは、一瞬息を飲んだ顔をして、

落ちたブローチに手を伸ばした。
「これは……」

***********

「麻美さん、お食事の時間です」
「はーい、すぐに行きます」
病院いる父から届いた手紙をしまいながら、ドアの向こうに返事をした。
父のアルコール依存症は、入院治療を始めたことで、

少しづづ回復しているらしい。

あんな父だったけれど、不思議とそれほど憎しみは無い。

父もきっと、苦悩していたはずだから。
父にぶたれた体の痛みを、ママのブローチで癒していたあの夜、

私の前に現れたおじさんは、本当のパパのお兄さんだった。
パパは、莫大な財産のある家に生まれた息子で、

結婚を反対されて、ママと駆け落ちしたのだという。

パパのお父さんが亡くなってから、伯父さんたちはずっと、

パパのことを探していたそうだ。
今、私は、子供のできなかった伯父さん夫婦の養女に迎えられ、

信じられないくらい大きな家で、お手伝いさん達や犬たちと一緒に暮らしている。
逃げ場のない狭いアパートで、父の振り上げた手に

怯えながら過ごしていた日が、遠い夢の中の出来事に思える。
あの夜、私を養女にしたいという伯父の話に激昂した父は、

台所から果物ナイフを持ち出し、伯父にその刃を向けた。

父が突き出したナイフを受け止めたのは、

伯父の手の中にあったママのブローチだった。
綺麗な蓋の模様は傷つき、針は二度と動かなくなったけれど、

伯父にも私にも怪我はなく、父はその場にへたり込んだ。
あのブローチの「いわく」について、

伯父から聞いたのは少し後になってからのこと。

綺麗だと思っていた蓋の模様は、実は特別な装飾文字で、

魔よけの呪文だったという。

代々この家の女性に大切にされていたというこのブローチは、

何度もこの家の女性達を救ったことがあるそうだ。
確かに、このブローチは、私のことを救ってくれた。
そして、罪を犯さずに済んだ、父のことをも救ったのだと思う。
けれど、ひとつだけ、どうしても諦め切れない思いが私の胸に残る。
もしも…・… もしも、あの日ママがブローチをつけて出かけていたら……
「麻美さん?」
お手伝いさんがもう一度ドアをノックした。
「あ、はい。今行きます」
私は、ママへの想いを振り切るようにドアを開け、

優しい養父母の待つ階下へと降りていった。