ウインドウショッピングするくらいなら、筋トレしていた方がいいという、運動オタクの従妹から電話があった。
待ち合わせたのは、彼女の大学の体育館。
彼女をひと目見たとたん、あれ?と小さな疑問がよぎった。
相変わらずショートカットで、ノーメイクにスポーツウエアの彼女が、以前とはどことなく違って見える。
どこが変わったのかしら?と思っていたら、本人から打ち明けられた。
「お姉さん、私、彼氏ができちゃった」と。
相手はダンベルでも腹筋台でもなく、ちゃんとした人間の男らしい。
しかも、彼女がこよなく愛する筋肉はあまりついていない、細身の男だという。
にも関わらず、彼はこの上なく男らしく、彼女は彼と一緒に居る時、いつも半歩後ろを歩いているのだそうだ。
大股で早足の彼女が、自分より細い男の後ろをしずしずとついて行く姿を想像すると少しおかしかった。
それでも、逞しい腕でダンベルを上下させたまま頬を赤らめ、今度のデートでは女らしい服を着たいからショッピングに付き合って欲しいと切り出す彼女は、少女のように可愛らしく見えた。
やっぱり、恋は凄いと思う。
彼との出会いや胸のときめきを話す従妹を見ながら、そういえば自分にもこんな時期があったと、遠い夏の日を思い出した。
私にも、5年間付き合っている彼がいる。
ただし、その関係は年々希薄になっていて、今はもう、“彼”という呼び方が正しいのかどうかさえわからなくなっている。
それでも私は、彼から贈られた細いベルトの腕時計を今もはずせないままでいる。
偶然から始まった彼との恋は、瞬く間に燃え上がって、彼のことを思うだけが胸が痛いほど苦しくて、同時にとてつもなく幸せで、これまで味わったことのないような不思議な気分が体を満たした。
私たちはお互いをとても大切に思い、何よりも必要と考えていたけれど、当時、私には恋人が居て、彼には……妻が居た。
それでも、私たちはお互いの気持ちを抑えることが出来ず、邪魔になった倫理観を捨て、時間をやりくりしてデートを重ねた。
人に言えない恋を終えるチャンスが訪れたのは、彼の転勤が決まった2年前。
私は彼との別れを決心して、待たせ続けた恋人との結婚を果たそうとしたけれど、彼が差し出した小さな箱で、簡単に気持ちがくじけた。
その時小箱に入っていたのが、今も私が着けているこの時計。
「離れていても同じ時間を過ごそうね」
彼の言葉に涙で頷いて、せっかく訪れた決別のチャンスをふいにした。
私はとうとう恋人と別れ、彼は妻との結婚を続けたまま遠距離不倫が始まった。
距離の離れた彼からの連絡は少しづつ減り、別れのチャンスは何度もやってきたけれど、私から電話すればこの上なく嬉しそうにし、変わらない愛を囁く彼の声に、連絡を止めることができなかった。
結局私は連絡を取り続け、短い逢瀬の時には、貪るように愛を確かめあった。
このままじゃいけないと思いながらも、どうしても気持ちを切り替えることが出来ず、新しい恋をすることもなく、彼からの連絡だけを待ちながらいくつも季節が巡っていった。
従妹はダンベルを振り回しながら、上気した顔で彼のことを話し続けている。
なんて幸せそうなんだろう。
思わずため息が出そうになって、手元の時計に目をやろうとした時、風を切る音がして何かが目の前に迫ってきた。
バンッ!!
迫っていたのは、白いバレーボールで、咄嗟に顔を庇った左手に当たって床に転がった。
「すみません!」
駆けてきた男子学生が長身を二つ折りにして謝っている。
「怪我はありませんか?」と心配する学生に、「大丈夫よ」と言った時、手首の時計の風防にひびが入っているのに気がついた。
「あ、時計が……」
学生は反射的に私の手首を掴むと私にぐっと近づいてきた。
「本当にすみません!」
手を掴んだまま学生が頭を下げたので、覆いかぶさられるような格好になって、私は少し赤くなった。
「この時計大切なものでしょうか?」
澄んだ目で覗き込まれると、今度は少しドキリとした。
「俺、一人暮らしで貧乏なんですけど、バイトして必ず弁償しますから、お姉さんの連絡先を教えてください」
長身の学生のストレートな謝罪に戸惑う私を、従妹がニコニコしながら見ている。
私の顔の赤みが怒りのせいではないことも、長身の学生が私好みのルックスであることも、従妹には見透かされているようだ。
ダンベルを振り下ろしながら、従妹が顔見知りらしいその学生に言った。
「お姉さんの時計、高いのよ。高円寺君のバイト代じゃあ弁償するのに3年はかかるわね。とりあえず、週末に食事でもしながらお詫びしたら?」
細いベルトの時計の針は、少し震えながらまだ時を刻んでいる。
でも、これは、ひびの入った時計などさっさと捨てて、新しい時計に買い換える、良いチャンスなのかもしれない。