「それで、全部ごっそり持っていかれちゃったの!?」
奈津美は目を丸くして叫んだ。
「そう、ごっそり、全部」
私はお茶をすすりながら、ゆっくりと答えた。
「よくそんなふうに平気な顔していられるわね?」
奈津美は信じられないといった顔をして、非難めいた目を向ける。
「騒いだって取られたものが戻ってくるわけじゃないもの」
先週末、泥棒に入られた。
数ヶ月前から、このあたりでは貴金属専門の窃盗事件が何件も起きていた。
用心をするよう回覧板も回っていたし、警戒;のパトロールも定期的に行われていた。
戸締りをしっかりし、夜間は部屋の電気をつけたまま出かけた。
それでも、窓をほんの少しだけ割って家に入った犯人は、
部屋を全く荒らすことなく目的を果たして逃走した。
現金や通帳にはいっさい手をつけず、ちゃんと値の張る貴金属だけを選んで持って行ったその手口は、鮮やかとさえ言えた。
もしも窓ガラスが割れていなければ、すぐには犯行に気付けなかったかもしれない。
「由佳は昔からいつもそう、何か大変なことが起っても、まるで見えていないみたいに平然としてる」
「はは」
奈津美の言葉が、あまりにも上手く私を言い表しているので、思わず自嘲の笑いが漏れた。
本当に、私には感情をきちんと表現する力が足りないのかもしれない。
“あのこと”を知った時だって、怒ることも泣くことも出来ず、
今と同じように、ただ、静かにお茶を飲んでいた。
心から信頼していた夫に裏切られた痛手は大きく、
本当は、心臓が止まってしまいそうなほど驚いていたというのに。
当日は出張だからと、5回目の結婚記念日のお祝いは早めに済ませた。
出張先で記念日を迎えた夫は、その夜を恋人と過ごしていた。
私がそのことを知ったのは、夫が戻る前日。
親切な女将が同伴女性の忘れ物に気付き、宿帳の住所、
つまりここに郵送してくれたのだ。
彼女が宿にイヤリングを忘れたりしなければ、
出張の度に二人が会っていたことも知らないで済んだのに……。
まるで妻のように振る舞い、イヤリングをわざと置いてきたのかもしれないその女性のことを想像すると、少しだけ吐き気がした。
「それにしても、婚約指輪まで持っていくなんて、許せない!」
奈津美は、まるで自分の指輪が盗まれでもしたかのように、いつまでも怒っている。
夫の前に、あのイヤリングを突き出して、こんなふうに怒ってみせたら、夫はどんな顔をするだろう?
冷静沈着で、何事にもソツの無い夫が、どんな言い訳をするか聞いてみたいと思った。
「全部なくなっちゃったから。とりあえず、一つだけね」
警察;とガラス屋が帰った後、食事に連れ出してくれた夫は、帰りに新しい指輪を買ってくれた。
あのイヤリングも、こんなふうにスマートに彼女に買い与えたものなのだろうか?
「取られちゃったものは仕方ないよ。君も僕も無事だっただけで十分だ」
少し曇った顔をしていたらしい私にそう言って、夫は今朝も爽やかに出かけて行った。
週末の出来事に対してまだ何か言いたげな奈津美を制して、私は本題に入った。
「ね、奈津美、私、家を出ることにしたの」
「え?」
突然変わった話題の唐突さに、奈津美はまた目を丸くした。
「由佳、何言ってるの……?」
まったく理解できない、という表情で、次の言葉を待っている。
「だいぶ前から計画してたの。新しく住む家も用意してあるし、当面の生活費もちゃんと蓄えてあるの。
でね、奈津美にお願いがあるの。これを夫に渡してくれないかしら?」
私はイヤリングと短い手紙を奈津美に差し出した。
飲み込めない顔のままそれを受け取った奈津美が尋ねる。
「で、いつ頃出て行く気なの?」
「今からよ。このお茶を全部飲んでしまったら」
そう言いながら立ち上がって、隣の部屋に用意していたボストンバックを持ってくると、
立ったまま残りのお茶を飲み干した。
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
ワケが分からず半泣きの顔つきになっている奈津美には悪いと思ったけれど、
あのイヤリングを見れば夫は全てを理解するに違いない。
夫婦共通の友人だった奈津美には、落ち着いたらゆっくりお詫びとお礼をしようと思っていた。
「奈津美、お茶飲んだら適当に帰ってくれればいいわ。
戸締り?鍵はそこにあるけれど、別にどちらでもかまわない。
かけておいたって泥棒が入るのだから。」
面白い冗談を言ったつもりだったけれど、奈津美はちっとも笑わなかった。
「落ち着いたら連絡するね。それ、よろしくね」
呆然としている奈津美にそう伝えると、コートに袖を通しながら靴を履き、
表で待っている車に向って走った。
乗り込むとすぐに発車した車の運転席には、大好きな人の笑顔があった。
「由佳、会いたかったよ」
そう言って微笑む彼は、私の恋人。
夫が長い間ずっと楽しんでいた婚外恋愛を、私も楽しむことにしたのだ。
「面倒なこと頼んじゃってごめんなさい。でも、上手くやったわね」
私は、後部座席のバッグを振り返ってつぶやいた。
バックの中には、お洒落な夫が使っていた高価な時計が何本も入っている。
もちろん、私がお気に入りだった宝石類も。
人気ブランドの婚約指輪を売れば、二人で南の島を旅行することもできるだろう。
連続窃盗犯には申し訳ないけれど、罪をかぶってもらうことにした。
明日の朝、夫はまた爽やかに言うだろうか?
「取られちゃったものは仕方ないよ」と。
夫の顔を想像しながら、小さな声でつぶやいてみた。
「新しい人生の楽しみ方を教えてくれてありがとう」
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