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ショートストーリー, リスタート

『砂時計』は、ショートストーリー『三分間の続編です。
独立した作品なので、単独でもお楽しみいただけますが、よろしければご一緒にどうぞ。

 

 

窓から入り込む空気が冷んやりしている。
三日降り続いた雨が上がって、秋が急に深まったようだ。

コトッ。
白いポットにお湯を注いで、砂時計をひっくり返した。

柔らかなダージリンの香りを感じながら、音も無く滑り落ちる砂を見てい
ると、とても不思議な夢を見たあの日のことを思い出す。

突然の事故で逝った恋人とのリアルな結婚生活の夢は、その後の私の生き
方を変えた。

―新しい幸せに向かって歩き出す努力をしないといけないよね。―

夢の中の恋人が、私に向かってそう言ったから。

ずっと断り続けていたお見合いの話を受けてみようと、「会ってみるわ」
と電話した時の、実家の母の喜びようは、大変なものだった。

重い沈黙に支配されたお見合いは、結局失敗だったけれど、私がこの世に
いない恋人を思い続けることをやめて、もう一度前を向いたことが母には
とても嬉しかったようだ。

もちろん、恋人のことを忘れることは出来なかったけれど、それまでのよ
うに、恋人がいなくなった悲しみばかりを思い出して反芻することは無く
なった。

女友達からは、優しい表情になったと言われるようになり、社内の男性た
ちからも気軽に声をかけられるようになった。

これまでの自分が、人を寄せ付けないような雰囲気を纏っていたことを
初めて知って少し驚いた。

それでも、次の恋が簡単に見つかったわけではなかったし、日々の生活は
相変わらず単調だった。

けれど……

落ちきった砂時計を確認して、ティーコージーをそっとはずした。

夕日を飲み込んだ海のように美しく澄んだオレンジ色が、白いティーカッ
プを満たしていく。

上品な香りに顔を上げて、彼が「ありがとう」と手を伸ばした。

今、カップの湯気の向こうには、愛する人の眼差しがある。

彼と出逢ったのは、去年の秋。

もう決して恋は出来ないと思い続けてきたはずの私が、彼にひと目で心を
奪われたことは、自分でも信じがたい衝撃だった。

そして、彼もまた同じように、私にひと目惚れだったと聞いた時、この世
にはやっぱり神様がいて、頑張っている人にはご褒美もくれるし、奇跡は
人間が考えているよりもずっと沢山起っているに違いないと確信した。

彼は、暗く後ろ向きだった頃の私の話や、長く引きずっていたかつての恋
人の話を、途中で遮ることもせず、じっと聞いてくれた後、「これまでよ
く頑張ってきたね」と優しく頭を撫でてくれた。

彼の胸に顔をうずめて、暖かな匂いを吸い込むと、張り詰めていた心が溶
け出して、ふいに涙が溢れてきた。

涙はいつまでも止まらなくて、私はそのうちわあわあと大きな声を上げて
泣いた。

ひとしきり泣いた後、泣き疲れた私の前に、彼が差し出してくれたダージ
リンティは、これまで失ったものをみんな取り戻すように、心と体に満ち
ていった。

「ねえ、砂時計ってさ……」

大きな手で玩んでいた砂時計をもう一度ひっくり返しながら、彼が話しか
けてきた。

「もうお終いだって思っても、こうしてまたひっくり返せば何度でもやり
直せるんだよね。何だか人生と似ていると思わない?」

もう一度ひっくり返せば何度でもやり直せる……

本当に、本当にそうかもしれない。

もう一度ひっくり返してやり直す勇気さえ出せば。

彼にひっくり返された時計の砂は、またさらさらとこぼれだして、新しい
時を刻み始めた。

彼は何度も砂時計をひっくり返しては、子供のように遊んでいる。

もうすぐ一緒に生活を始めることになっている、この無邪気な彼の笑顔を
見ながら、私は、ダージリンの甘い香りと幸福感で満たされていた。

ショートストーリー, リスタート

このお話は、『窃盗犯』の続編です。
合わせてお読みいただくとよりお楽しみいただけます。

激しく燃え上がった恋が長続きしないことなど解ってはいたけれど、
あまりにも早く過ぎ去った日々は、現実だったのかどうかさえ定かでないように思う。

独りきりになった部屋にポツンと座り、失くしたものの大きさを思い知った。

ほんの4カ月前、私は夫を欺いて、年下の恋人と逃避行した。

しばらくは遊んで暮らせるだけの金品を持ち出していたから、
そのまま二人で南の島に飛んだ。

私たちを知る人が誰もいない島で、波の音と、鳥の声と、
愛の囁きだけを聞いて過ごした日々は、まさにパラダイスだった。

帰国しても用意してあった部屋には戻らず、
桜前線を追いかけるように、日本を南から旅してまわった。

そんな暮らしをしていたから、1年以上は生活できるはずの貯金も、瞬く間に減っていった。

ようやく部屋に落ち着いたのは、このあたりの桜も散り始めた頃。

生活に必要な道具をそろえ、職場を探す私とは裏腹に、
彼はまだ旅を終わらせたくないようだった。

それでも、もう、旅を続けながら暮らしていくだけの金銭的余裕がないことが解ると、仕方なくアルバイトを始めた。

ところが、それから10日と経たないうちに、彼がアルバイト先で怪我をした。

日雇いのようなアルバイトでは、仕事中の怪我でも何の保障も受けられず、
ちょっとした手術の費用と、二週間分の入院費を支払ってしまうと、手元の現金は殆ど無くなった。

私は家を出て初めて、これからの生活に不安を感じた。

それなのに、退院してきた彼は、私の指輪に目を留めると、
「今度はそれを売って美味しいものでも食べにいこう」
と信じられないことを言った。

それは、たった一つだけ売らずに残してあった私の貴金属で、
夫が最後に買ってくれた指輪だった。

「これは、イヤよ」

一緒に暮らすようになって初めて彼の言葉に逆らった。

一瞬表情を変えた彼は、力づくで強引に私の指輪を抜き取ると、
何も言わずに出て行ってしまった。

家具もろくにない殺風景な部屋で、どれくらいぼんやりしていただろう?

夕暮れが近づいた頃、彼が戻ってきた音がした。

指輪が思いの他高額で売れたらしく、彼はとても上機嫌だった。

座り込んだままの私を後ろから抱きすくめると、
「ごめん」
と言いながら首筋にキスした。

その時、ようやく、私は重大なことに気が付いた。

私が愛して溺れていたのは、無神経なこの年下の男ではなく、
現実から逃避させてくれたドラマチックな日々だったのだと。

床の上に押し倒された時、思わずつぶやいていたのは、
見限ったはずの夫の名前だった。

どんな時でも冷静で、余裕のある態度をくずさなかった夫は、
今、どうしているのだろう?

涙がとめどなくあふれ出して、夫のことで頭が一杯になった。

彼は私の体から離れ、うわごとのように夫の名前を呼び続ける私を、
気味の悪いものでも見るような目で眺めた。

いつまでも泣き止まない私に、彼は、
「楽しかったよ」
とだけ言い残して逃げるように部屋を出て行った。

独りきりになった部屋が夕闇に包まれても、電気をつける気力さえなかった。

************

恋人との時間が楽しかったのは、きちんと家庭を守る妻がいたからだと解っていたけれど、
彼女がいなくなってからの4カ月間は、そのことを確認するのに十分な時間だった。

簡単だと思っていた家事は、想像していたよりもずっと重労働で、
仕事に神経を集中させることが、だんだんと難しくなってきた。

地方にいる恋人が日常的に身の回りの世話をしてくれるはずもなく、
忙しさにかまけて連絡できないでいるうちに、新しい男に乗り換えてしまった。

独りの食事をインスタント食品で済ませ、どこかにいる妻を思った。

翌日、遠方の仕事先から帰る途中、ある店のウインドウに見覚えのある指輪を見つけた。

立ち止まって看板を見上げると、そこには「質」の文字があった。

なんともいえない感情がこみ上げ、すぐに店のドアを押した。

あの指輪は間違いなく、僕が妻に買ったもの。

それをこんなところに持ち込まなくてはならないほど、
彼女の生活が困窮しているのかと思うと、居ても立ってもいられなかった。

店の主人に頼み込めば、指輪を持ち込んだ妻の居場所を教えてもらえるかもしれない。

店の中に入って行くと、カウンターの主人に向って何か話している女性が居た。

そのほっそりとした後姿は、紛れもなく妻のもの……

「由佳……」

振り返った妻の顔が、驚きから安堵の表情に変わるより早く、
涙が視界を遮って、涙ぐむ妻の顔がぼやけていった。

*************

「行ってらっしゃい」

「行ってくるよ」

「ね、早く帰ってきてね」

「ああ、できるだけ早く戻るよ」

彼がおでこにキスをして、今朝も爽やかに出勤する。

趣味の良いスーツに包まれたスマートな後姿を見送っていると、
ここに戻ってこられたことが奇跡のようだと思わずにはいられない。

私は、今、夫の傍に居られる幸せを心から感じていた。

夫の元から飛び出したあの日に居合わせた親友の奈津美は、私の行動に目を丸くしていた。

今、またこうして夫と暮らし、平然とキスを交わす私たちを見たら、
奈津美はどんな顔をするだろう?

ここに戻ってきたことを知らせるのは、もう少し先にしようか。

夫の軽やかな足音が遠ざかっていくのを聞きながら、そんなことを考えていた。


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。