「愛してるよ」
耳元に唇を寄せて囁く時の慎一の声は、普段より少しだけ低くなる。
微かに触れた唇の振動が快感になって体の芯まで駆け抜ける。
「あ……」
言いたい事があったはずなのに、口より先に体がぴくんと反応するから、
慎一は私の言葉など待たずに、深いところに指を進める。
別の生き物のように動く指先が頭を混乱させて、
慎一への不信感も、問いただしたい事柄も忘れてしまいそうになる。
それでも、わずかに残った理性を振り絞って
言葉を押しだそうとする唇を、慎一の熱い舌が奪う。
強引に押し入り、舐め回す濃厚なキスで、漏れ出す言葉が吐息に変わる。
今日も、また、何も訊けない……。
「ごめんな、百合。今日は泊まっていけないんだ」
ワイシャツのボタンを留めながら、こちらを振り返りもせずに慎一が言う。
よそよそしく白いシャツの背中を見ながら、
幸福な時間があっという間に過ぎ去った事を思い知る。
「今日は」じゃなくて、「今日も」でしょ。
頭の中ではそんな皮肉も言えるのに、口をついてでるのは別の台詞。
「今度はいつ会えるの?」
「最近仕事が忙しいんだ。またこっちから連絡するよ」
そして慎一は、忘れ物にでも気付いたように向きを変えて
私の傍までやって来ると、耳元に唇を寄せて、一段と低い声で囁いた。
「愛しているよ」
私は軽いため息をつき、今度はちゃんと口を開く。
「私も愛してるわ、慎一」
私はみんな知っていた。
今の慎一の「愛してる」に、もうそれほど愛がこもっていないことも、
慎一がこの部屋のドアを閉めて夜の街に出た途端、
あの女に電話していることも……。
*********
キッチンには甘い香りが満ちている。
慎一に贈るための特別なチョコレートケーキを作っていた。
私の愛がどれほど深いか、ちゃんとわかってもらいたいから。
卵白を泡立てながら、昨夜の事を思い出す。
どうしても慎一に直接問いただすことが出来なかった私は、
慎一のスマホを調べて、あの女のことを突き止めた。
高台にある女のマンションは、この部屋よりも数倍広くて新しかった。
部屋に通されてすぐ、私は単刀直入に切り出した。
「慎一さんと別れて下さい」
女は私の顔をまじまじと見詰め、それほど驚きもしない様子で言い放った。
「あら、別れるのはあなたの方なんじゃない?
慎一は優しいから、まだ切れていなかったのね」
そして、私の顔の前で、ダイヤを嵌めた左手をひらひらと振って見せた。
広くて新しい部屋の隅には、電化製品段ボール箱がいくつも重ねられていた。
私の視線に気付いた女が、追い打ちをかけるように言った。
「もう、準備を始めているのよ」
こんなふうに訪ねて来る女がいるというのに、
不安など微塵も感じてい傲慢な笑顔で、女がにっこり微笑んだ。
押さえようの無い怒りと大きな屈辱感と悲しみで、私の頭は混乱した。
咄嗟にマフラーを外すと、女の後ろに回り込んで、その細い首に巻き付けた。
端を両手でしっかりと持ち、全身の力を込めて引っぱった。
女の白い耳たぶが赤くなるのを見ながら、慎一の囁く声を思い出し、マフラーをさらに強く引いた。
カチャン。
泡立て器が手からすべって、我に返った。
泡立てた卵白ををつぶさないように、別立てした卵黄を流し込む。
そこにふるった粉をさっくりと混ぜた後、
あの女のしていたダイヤの指輪を放り込んだ。
よく輝く透明な石は、生地に埋もれてすぐ見えなくなった。
それからハンカチに包んだ固まりを取り出し、それも生地の中に入れた。
昨日はとても白いと感じたそれは、どす黒い汚い色に変わっていた。
ケーキが不味くなってしまうかしら?
溶かしたチョコレートを加えながら、浮き沈みする固まりを見て、
ちゃんと焼けるか気になったけれど、そのままオーブンに入れた。
「不味くっても仕方ないわね、悪いのは慎一だもの」
小さく微笑みながら、声に出して言ってみる。
慎一の「愛してる」を聞くのは私の耳だけで十分なのに、
あんな耳にも囁いていた慎一が悪いんだから……。
オーブンから甘く香ばしい香りが漂い始めた。
慎一のためだけの特別なチョコレートケーキが、もうすぐ焼き上がる。
※『チョコレートケーキ2018』もぜひ合わせてお読みください。