僕は幸運の時計。
僕を手にしてくれた人に、幸運を感じてもらうのが僕の使命。
僕はいつでも精一杯頑張って、僕を手にしたどの人からも、
満面の笑みを引き出している。
さて、今度のご主人様は……
あらら、なんて暗い顔をしているんだろう。
これじゃあ幸運の女神がずぐ近くまで来ても、
回れ右して帰ってしまいそうだ。
でも、僕を手にしたからには、もう大丈夫!
見ててごらん、僕はきっと、彼女からも素敵な笑顔を引き出すから。
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はぁ……。
千賀子おばさんったら、「これは幸運の時計だから、しばらくあなたに貸してあげるわ」
なんて、無理矢理私に押しつけたけれど、困ったな。
こんな高価そうな時計、もし壊しちゃったりでもしたら……
はぁ。
小さくため息をつきながら、私は自分でもつくづくネガティブな性格だと思った。
今日、母に用事を頼まれて、千賀子おばさんの所に行った。
母より5つも年上だというおばさんは、いつも元気で綺麗にしていて、
正直に言えば母より5つ以上年下に見える。
そのおばさんが、用事を済ませて帰ろうとする私を引き留め、
突然時計を差し出すと、突拍子もないことを言い出した。
「久美子ちゃん、いい若い子がそんな暗い顔していちゃいけないわ。
あなたは笑うと可愛いんだから、いつもにこにこしていなきゃ。
これね、おばさんの時計なんだけど、今日からあなたに貸してあげるわ。
実はね、この時計、どこにでもあるただの時計じゃないのよ」
おばさんはここで、ちょっと声を潜めて、私の耳に顔を近づけ、
重大な秘密でも打ち明けるように囁いた。
「幸運の時計なの。この時計をつけていると、必ず良いことが起こるはずよ」
反射的に目をやった時計は、どこにでもある普通の時計に見えた。
ただ、あえて言うなら、その時計は、高校生の私がつけるには、
あまりにも高価そうな時計だった。
それに、今時小学生だって、“幸運の時計”なんていう
都合の良い話を簡単に信じたりはしないと思う。
受け取るのを躊躇っている私を見かねて、
おばさんは半ば無理矢理私の腕を取ると、手首にその時計を巻き付けた。
そして、「久美子ちゃんにも良いことが起こって、いつも笑顔でいられるようになったら返しに来てちょうだい」
と、自信たっぷりに微笑んだ。
帰り道、その時計をまじまじと眺めながら、
やっぱりこれはいつだったか友人の家のファッション雑誌で見た高価な時計と同じものだと確信した。
おばさん、どういうつもりなのかしら?
お母さんに何か頼まれでもしたのかしら?
確かに私はここのところロクな事がなく、毎日暗い顔で過ごしている。
先々週、密かに憧れていた西崎先輩が女性と手を繋いで歩いているのを見てしまったし、
先週の部活でレギュラーのメンバーから外され、対抗試合では当分、ベンチを暖めることが決定した。
そして、今週あったテストでは、一番得意だったはずの数学で、
目も当てられないような点数を取り、担任に志望校を変えた方が良いと告げられた。
はあ……。
もう一度ため息をついたとき、腕に留まっていたはずの時計が突然するりと落ちた。
あっ!おばさんの時計が……。
私は慌ててその場にしゃがみ込んだ。
その時。
ドン!
鈍い音がして、背中に何かがぶつかった。
「すみません!」
急にしゃがんだ私の背中に、誰かが躓いたようだった。
「ごめんなさい!」
立ち上がって振り返ると、そこにはあの、西崎先輩が……
「なんだ、田川じゃないか」
一瞬驚いた顔をした先輩は、けれど、すぐににっこりと笑って、
「ちょうどいいや、おまえ、今暇か?」と訪ねた。
「あ、えっと、あの、はい……」
しどろもどろになって答える私の手を掴むと、先輩は早足に歩きだした。
私はさっきまでおばさんの時計がはまっていた手首に先輩の暖かい手を感じて、
反対の手でしっかりと時計を握ったまま、先輩と一緒に歩いた。
「実はさ、俺、今から女性にプレゼントを買わなくちゃいけないんだけど、
どんな物にしたらいいかわからなくって困ってたんだ。
田川、一緒に買いに行ってくれないか?」
「プレゼントって、あの、彼女にするんですか?」
おそるおそる訪ねた私に、先輩は大笑いして言った。
「彼女?んなのいないよ」
「でも、私……、あの……先日先輩が綺麗な女性と手を繋いでるの見ちゃったんです……」
なぜか私の方が赤くなりながら呟いた。
「手?ああ、手ね、あれは遊びに来ていたいとこだよ。
それに、手なら今だって、こうして田川と繋いでるじゃないか」
そう言って笑う先輩の声と、改めて感じる手首の暖かさに、
私は耳までボッと赤くなった。
すっかり恥ずかしくなって、うつむいたまま何も言えずに歩く私に、先輩が話しだした。
「田川が見かけたっていうあのいとこの子の母親がさ、先日病院を退院したんだ。
ずいぶん長い間入院してたんだけど、ようやく家に帰れることになったんだよ。
俺、その人には子供の頃から世話になってたからさ、本当に嬉しくって、お祝いに何か贈りたいんだ」
私は西崎先輩のこういう優しいところも好きだったのだと再確認した。
「な、田川、プレゼントは何がいいと思う?」
「えっと、時計……腕時計がいいと思います」
咄嗟の質問に、私は自分でも驚くほど素早く答えた。
「腕時計か……、そうだな、病院では必要なかったけど、普通に生活するようになったらあった方がいいもんな」
先輩は少し考えて、「じゃ、あそこで探してみようか」
と通りの向こうの大きなデパートを指さして、
「いいのが選べたら夕飯奢るよ」
とまた私に向かって笑顔を見せた。
まだ赤い耳をしたままの私も、先輩の笑顔につられて、思わずにっこり笑いながら、
「はい」
と大きく頷いていた。
しっかりと握った左手の中の腕時計も、一緒に笑っているような気がした。
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「で、あの子の様子はどうだった?」
受話器の向こうから聞こえる心配そうな声に、千賀子は明るい声で答えた。
「大丈夫よ、あれくらいの年頃の子って、小さな事でもいろいろと思い悩むものなのよ。
でも、あんまり暗い顔してたらから、ちょっとした暗示をかけておいたわ」
千賀子はクスッと笑いながら、友人から海外土産に貰った、
高級ブランドの精巧なコピー時計の事を思い浮かべた。
久美子のことだから、今頃はあの時計を本物だと思って大切に扱っていることだろう。
幸運をもたらすと断言された高価な時計を身につけていれば、自然と気分も前向きになるに違いない。
「幸運なんて、本当は自分で掴むものだもの」
そう小さく呟いた後、千賀子はまた受話器の向こうとのお喋りに戻った。
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僕は幸運の時計。
やれやれ、世の中にはパワフルな人もいたもんだ。
でも、ほらね、あの暗かった女の子も、やっぱり満面の笑みを浮かべたでしょう?
次は、君と、どこかで出会うかもしれないね。