住宅地を抜けると、さっきまでの風景が嘘のように閑散とした景色が広がっている。
まるで、次元の違う世界に来てしまったような錯覚さえ覚える。
いつものところに車を止めさせると、後部座席から降りてあの窓がよく見える場所に立った。
薄闇にかかる空を背景に聴こえてくるのは、ショパンの夜想曲。
開いた窓にかかるレースのカーテン越しに、歌うような旋律を紡ぎ出す彼女の白い指先が見える。
繊細なピアニシモがよく似合う、細く長い指。
私は、その白く細い指を初めて目にした時、これまで感じたことのない感情に襲われた。
有り体に言えば、一瞬で恋に落ちてしまったのだ。
もちろんこれまでに恋をしたことが無かったわけではない。
むしろ、女性に不自由したことは無いといった方が良いだろう。
それでも、わが身のコントロールを失うほどの感情に苦悩したことは、一度としてなかった。
それが、今の私ときたら、光に吸い寄せられる虫のように、あの指が奏でる調べに誘われて、毎夕あの窓を見詰めている。
いつだって仕事を優先してきた私が、ただ、ピアノを弾く彼女の指先を見るためだけに、毎日時間を作っているのだ。
自分でも自
分の行動が信じられないし、人に話せば気が狂ったと思われるかもしれない。
甘い旋律に身を委ねていると、優しく絡む絶妙な装飾音に体を愛撫されているような気分になる。
誘うように、じらすように、癒すように響くピアノの調べ。
言いようの無い快感と疼きが同時に湧き上がってくる。
コーダが宝石のように煌くと、彼女の指がピアノから離れた。
私はようやく我に返った。
あの白い指を私だけのものにしたい……
もっと間近であの旋律を聴き、夢のように踊る指先を見詰めたい。
高ぶる感情は、日を追う毎に増していって、大切な会議の最中にまで、白い指の幻影を見るようになった。
私は彼女にプロポーズをする決心をした。
宝石店で美しいダイヤの指輪を買った。
一点の曇りもなく透明で清楚な輝きを放つこの石は、彼女の白い指によく似合うはずだ。
私の贈った指輪をつけて鍵盤の上を踊る指先を想像すると、喜びに胸が震えた。
いつものように車を待たせ、真っ直ぐに彼女の元へと向った。
いつも佇んでいた場所を抜け、彼女の家の玄関へと進む。
呼び鈴を押すと、ピアノの音が止まった。
招き入れる声に従い、ドアの内に入る。
初めてレースに遮られることなく見た彼女の容姿は、想像を遥かに超えて美しかった。
彼女は、まるで、私が訪ねて来ることを予期してでもいたかのように、穏やかな表情で微笑んだ。
そして、あの旋律と同じくらい優雅な身のこなしで、私を二階へと促した。
衣擦れする長いスカートの裾を追って階段を上がっていくと、ドアの開いた部屋の窓辺には、いつも見ていたあのピアノが置かれていた。
音もなく椅子に座った彼女は、私の方を振り返ると少し微笑んで、夜想曲を奏で始めた。
手を伸ばせば届くところで、彼女の白い指が踊っている。
心地よい旋律に絡めとられて、体が溶けていくような感覚に陥る。
彼女の指が止まったとき、ようやく心を取り戻した私は、急いで指輪の箱を取り出した。
壊れてしまいそうなほど細い指をそっと掴み、ダイヤの指輪をはめながら、当然のようにプロポーズをした。
「結婚して欲しい。これからずっと、私の傍でピアノを弾いていて欲しい」
「ずっと、聴いていてくれるの?」
「もちろんだ。もう離れたくない」
「嬉しいわ」
彼女はにっこりと微笑むと、ダイヤの指輪がピッタリと似合った指を、また鍵盤の上に戻した。
白い指を優しく撫でながら、彼女の唇を奪った。
愛撫する手を指先から腕へ、腕から肩へとゆっくりずらすと、彼女がいつもの旋律を奏で始めた。
滑らかな肌を辿って、私の手が体を滑ると、美しい旋律に彼女の吐息が重なった。
鍵盤の上を細やかに震える彼女の指先と一緒に、ダイヤの光が揺れている。
羽根で皮膚を撫でるようなピアニッシモに陶酔しながら、私の手は彼女の胸から臍へと下りていった。
めくるめく快感の中で、美しい旋律の繰り返しと、優雅に踊る白い指だけが、私に理解できる全てになった。
滑らかな彼女の体の、臍を越え、太ももを越えた先が、空気にフェードアウトしていることさえ、今の私にとってはもうどうでもいいことだった。