ガシャーン!

トレイから滑り落ちたカップやお皿が、お互いにぶつかりあって派手な音をたてた。

典子は「ああっ!」と叫んだ口の形のまま、泣きそうな顔で床に座り込んでしまった。

「憧れだったマイセンなのよ、これを一式揃えたくてパートを始めたようなものなの」

そう言いながら取り出したティーカップは、一度も紅茶を注がれないままゴミ箱に送られた。

すっかり落ち込んでしょげかえる典子を見て、由香里は、昔母から聞いたある話を思い出した。

「ね、典子、母から教わった話なんだけど、大切な物が壊れたりなくなったりするのはね、物がその人の身に降りかかるはずだった災難を代わりに引き受けてくれた時なんですって」

「マイセンが何か私の身代わりになってくれたっていうこと?」

「そうよ。……私の母によると、だけれど。」

「そういえば由香里のお母さんって、子供の頃からよくそういう類の話をして失敗を慰めてくれたっけ」

典子は一瞬懐かしそうな表情をすると、「紅茶、入れなおしてくるわ」と言って立ち上がった。

典子が入れなおしてくれた紅茶とケーキでお喋りをして、じゃあと玄関を出た時、外はもう暗くなりかけていた。

「また来てね」と手を振る典子のエプロン姿に、しばらくしたら帰宅するご主人の姿を想像した。

先に結婚して主婦になった典子を訪ねる度に、由香里も早く結婚したいと思ってしまう。

東京の由香里が大阪にいる恋人晴樹と会えるのは月に一度がやっと。

たいていは金曜の夜仕事の後に名古屋で落ち合い、週末を一緒に過ごして月曜にはまたそれぞれの職場に戻る。

名古屋駅で二人別々のホームに向かう時は、本当に後ろ髪を引かれる思いで、ドアが閉まる寸前に飛び乗ることもよくあった。

次の逢瀬の時もやはり、切なく別れて帰るのだろう。

晴樹と手を繋いだまま、同じ方向の電車に乗る日はいつになったら来るのだろう?

その夜、由香里は晴樹と過ごす夢を見た。

晴樹が何か言おうとしているのに、発車のベルが邪魔をして聞こえない。

晴樹、何?何て言ってるの?

このベルさえ止まれば晴樹の言葉が聞こえるのに……晴樹、もっと大きな声で言って!ねえ、晴樹……それにしても煩い音……

ルルルルルル……

はっと気づくと枕元の目覚まし時計が鳴っていた。

**********

晴樹と見詰め合いながら、由香里は幸福の絶頂いた。

ふと視線を投げた窓の外で、夕闇が空を薄紫に染めているのを見て、先週の今頃、典子のエプロン姿を羨ましく思いながら、夕暮れの道を歩いていたことを思い出した。

これからは自分も、夕暮れ時にはエプロンをしてキッチンに立つことになるのだと思うと、体が震えるほどの幸福感が込み上げてきた。

幸福な気分の震源地は左手の薬指。

そこには、晴樹から贈られたばかりの、ダイヤの指輪が眩く輝いていた。

「しあわせ」

思わず呟いてしまった声に、晴樹がにっこり微笑んだ。

5時間後、いつものように別々のホームに向かう私の気分はいつもと少し違っていた。

確かな約束ができ、一緒に帰る日も近いのだと思うだけで、こんなにも違うのかと自分でも可笑しくなるほどだった。

乗車口で立ち止まって、晴樹の向かったホームをもう一度振り返り、満たされた気持ちで左手に視線を移した時、心臓が止まりそうになった。

大切な指輪が無い!

ついさっきまで確かに左手に輝いていたはずの、幸福な未来への切符がないのだ。

確かに少しゆるかったけれど、自然に抜け落ちるなんて考えもしなかった。

どうしよう!?

鳴り始めた発車のベルに背を向けて、今来た道を逆戻りした。

どこで落としてしまったのだろう?

暑くもないのに顔が熱り、セーターの中で体が汗ばんでいた。

涙目になって駅中を探し回り、届出をした後、通った道をそのまま遡って探し歩いた。

タクシーを拾って晴樹と食事をしたレストランに行き、事情を話して店内を探してもらった。

ここでも見つけることが出来ず、とぼとぼと店を後にすると、とうとう涙を抑えきれなくなった。

晴樹になんて言えばいいのだろう?

その時、当の晴樹から携帯にコールが入った。

「もしもし……」

涙声で電話に出ると、晴樹が思いっきり安心した声で言った。

「よかった!由香里は大丈夫だったんだね。恐かったろう?でも、無事で本当によかった!」

晴樹の言っていることがよくわからず聞き返すと、晴樹は新幹線車内に流れる電光掲示板のニュースで、私が乗るはずだったのぞみ156号が大きな事故に遭ったと知り、慌てて電話したのだという。

詳しいことはよくわからないけれど、車両が横転して死者も出たらしく、乗客乗員の半分以上が怪我をしているということだった。

うそ!?

もしも指輪を失くさなかったら……

由香里は横転した車内と大怪我をした人たちを想像してゾッとした。

あっ!……もしかして……

先週、自分が典子に言った言葉が突然思い浮かび、指輪が知らないうちに抜け落ちていたことへの不思議な気持ちに納得がいった。

いろいろな気持ちが混ざりあって、涙を止めることが出来なくなった。

晴樹には何から話そう?

電話の向こうで私の名前を呼ぶ愛しい人の、安堵と困惑が混じった表情を思い浮かべながら、涙声のまま話し始めた。

「晴樹、あのね……」

「うん、うん」と穏やかに頷く晴樹の声を聴きながら、由香里は、しっかりと手を繋いで一緒に歩く、未来の晴樹と自分の姿が見えたような気がした。


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。