黙ったまま窓の外を見ていた彼が、
冷めたコーヒーを飲み干して、意を決したように口を開いた。
「ごめん、俺たちもう別れよう」
想像通りだ。
彼が親友の亜矢とこっそり会っていることは、
少し前から知っていた。
でも、彼に問いただす勇気はなかったし、
別れを覚悟する時間が欲しかったから、気づかないふりをしていた。
頭の中で何度も終わりの瞬間を想像して、
心を落ちつける練習をした。
「わかったわ。今までありがとう」
予定通りの台詞を言って、伝票を持って席を立った。
大丈夫、泣かないでいられる。
悪い未来を想像して、その時に備えるようになったのは
いつ頃からだったろう?
はじめての海外旅行では、天候不順で飛行機が飛ばないことや、
旅先での盗難や、パスポートの紛失を想像したし、
派遣会社で働き始めたときには、
上司に酷く叱られることや、契約打ち切りを想像した。
彼と付き合い始めると、デートの度にあらゆる失敗を想像し、
ケンカや浮気も想像して、万一の時に備えてきた。
旅行の日、飛行機は無事飛んだけれど、現地はずっと雨で、
派遣先の厳しい上司には、毎日のように叱られている。
そして今日は、彼に別れを告げられてしまった。
それでも前もって想像しておいたおかげで、
耐えることができたのだと思う。
これから起こりそうな悪いできごとも、前もって想像して
しっかり覚悟しておけば、なんとか乗り切れるはずだ。
失恋の後で起こりうる悪いことは……
早速想像しようとして、いつもと感じが違うことに気づいた。
悪いできごとが全く想像できないのだ。
いつもならばいくらでも湧いてくるはずの悪い想像が、
なぜだか1つも思い浮かばない。
目を閉じてもう一度考えてみたが、やっぱり1つも出てこない。
この先起こりうる悪いできごとは……
<そんな想像しなくていいよ>
突然そう声がした。
はっと辺りを見回したが、声の主らしい人はいない。
深呼吸で心を落ち着けて、再び悪い想像をしようとすると……
<だから、そんな想像しなくていいんだってば!>
さっきよりも大きな声がした。
<しばらくつまらない想像はできないようにしておいたから。
人生は何が起こるかわからないから楽しいんだよ。
そりゃ悪いことだって起こるけど、
良いことだってたくさん起こるってことを忘れないで!>
声はそれきり聞こえなくなったが、
悪いできごとはその後もなぜか全く想像できなかった。
3ヶ月後、彼と最後に会ったカフェに1人で行くと、
店員に携帯番号を渡されて告白された。
彼と一緒に通っていた私をずっと見ていてくれたらしい。
派遣契約の更新時期に、あの厳しい上司から、
正社員にならないかと打診された。
早くも彼と別れたという亜矢から、
ゆっくり話して謝りたいからと、温泉旅行に誘われた。
別れた彼よりずっとイケメンなカフェの彼と付き合いだし、
正社員として働きはじめ、
温泉旅行の出発日が近づいてきても、
もう、悪いできごとを想像することはない。
人生は何が起こるかわからないから面白いのだし、
悪いことが起こることもあるけれど、
良いことだってたくさん起こるとわかったから。
あの日の声の主はもしかしたら、
悪い想像ばかりする私の中に隠れていた
ポジティブなもう一人の私だったのかもしれない。