ドアの向こうから聞き覚えのある曲が流れてくる。
なんという曲だったろう?
僕は記憶の引き出しを開けてその心地よいメロディーの思い出を探った。
そうだ、昔、彼女がよく口すさんでいた曲だ。
髪をとかしながらハミングするように歌っていた彼女の表情まで、鮮明に思い出した。
長い艶のある髪がさらさらと揺れる姿は、ドキドキするくらい綺麗だった。
ときどき僕の方を見てにっこりと笑う仕草がまた可愛かった。
彼女と僕が出会ったのも、今と同じ夏に向う季節だったと思う。
長い髪を二つに結んだ彼女は、少しはにかんだ笑顔で僕を見つめると、小さくて柔らかい手で、ためらいがちに僕に触れた。
僕はその瞬間から……いや、本当はあいつと一緒にいる彼女を見つけた時から、彼女のことが好きだった。
彼女もすぐに僕のことが気に入ったのは、その表情からも明らかだったけれど、僕と彼女が一緒に出かけるときには、いつもあいつが一緒だった。
彼女はデートの準備をしながら、よく、あの曲を口ずさんだ。
僕は少々オンチなその歌を聴いているのがとても好きだった。
彼女と僕とあいつのデートが続いたのは1年あまり。
彼女があの曲を口ずさむ回数がだんだんと減り、同時に笑顔も減っていって、最後には電話を見詰めて、ため息ばかりをつくようになった。
そして、ついに、僕らが一緒に出かけることはなくなった。
カーテンも開けない部屋でパジャマを着たまま、たくさん涙を流す彼女が痛々しくてたまらなかった。
彼女のために何もすることができない自分を、どんなにもどかしく思ったことか……
流れる曲の音が大きくなった。
彼女のいる部屋のドアが開いて、深い珈琲の香りが漂ってくる。
彼女はあいつと出かけなくなってから、苦い珈琲を飲むようになった。
あれからずいぶん長い時間が経ったから、あんなによく聞いた曲のことも、もう忘れかけていた。
彼女が湯気の立つカップを手にしたまま、僕のところに近づいてくる。
「懐かしい曲聴いたら思い出しちゃったわ」
綺麗な花が描かれた白い陶器の蓋が開けられ、僕は久しぶりに光を浴びた。
彼女は、あの頃より少し細くなった指に僕をするりとはめると、窓から差し込む日差しにかざして、遠い目をして微笑んだ。
今の彼女は幸せそうだ。
最後に彼女と出かけたのは、もう5年も前のこと。
あの頃僕の定位置だった彼女の指には、今、小さなダイヤのついた細いリングがはまっている。
すっかり大人の女性になった彼女に、僕はあまり似合わなくなってしまった。
彼女と一緒に出かけることは、たぶん、もうないだろう。
それでも、時々、僕を取り出して眺めてくれる彼女。
僕は、今でも彼女が好きだ。
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