テーブルの上の砂時計をもて遊びながら、またぼんやり考えていた。
明日、私は30歳になる。
母から送られてくるお見合い写真の数も質も、年々低下していって、「大台に乗ったら私も諦めるから」という宣言通り、
昨日届いた写真には、「これが最後」というメモが添えられていた。
さらさらとこぼれる小さな瓶の中の砂を見ながら、あの日のことを思い出す。
もうずいぶん前から人に話すこともなくなっていたけれど、決して忘れることの出来ない、心に突き刺さった針のような記憶。
あの日、もしも、あと3分早くあの店についていたら……
あの日のたった3分間が、私の運命を変えたのだと思う。
当時の新聞で、その事故はかなり大きく取り上げられた。
愉快犯、というふざけた呼び方は、弱りきっていた私の神経を逆撫でした。
小さな爆弾をあちこちの店に仕掛けて次々と爆破させた頭のおかしい犯人。
「人を殺すほどの威力はないと思った」そんな供述の載った新聞を、泣きながら引き裂いた。
小さな爆弾は、それを見つけて拾い上げようとした彼の手の上で爆発した。
破片が喉や胸に突き刺さり……薄れていく意識の中で、彼が最後に聞いた私の声は、搾り出すような悲鳴だったと思う。
私があと3分早くあの店についていたら……
彼はあんなものを拾い上げることなどなかったはずなのに。
彼の持っていたバックの中には、初任給で買ったであろうダイヤの指輪が入っていた。
「就職したら結婚しよう」と言った彼は、その約束を守ることができなくなった。
砂時計をまたひっくり返して思った。
もしもここに悪魔が現れてくれたら、私の残りの命と引き換えにしてでも、あの事故の3分前に戻りたい!!
突然、落ちている砂が止まり、いっさいの音が聞こえなくなった。
頭の中を何かがさらさらと流れるような感覚が襲い……
思わず閉じてしまった目をもう一度開けたとき、私はあの店のドアの前にいた。
店内にいる彼が、いつになく深刻な顔でコーヒーを飲んでいる。
うそっ……?
夢を見ているのかもしれない。
それでも私は急いで彼の元に駆けていくと、驚く彼の手を引いて、店外へ連れ出そうとした。
財布を取り出しながら、「そんな怖い顔してどうしたんだよ?」といぶかしがる彼を急かして、とにかくドアの外へと向かった。
ドアをパタンと閉めた瞬間、背後で爆発音がした。
取り戻したんだわ!
彼の命と私たちの幸せを!!
とめどなく涙が溢れた。
私は彼からプロポーズされ、若く幸せな花嫁になった。
2年後には彼に似た男の子が生まれ、幸せはさらに深まった。
息子が幼稚園に入ると、パートの仕事に出るようになって、小さいけれどお庭のある家を買った。
ローンは苦しかったけれど、犬と遊ぶ息子を見るのは楽しかった。
彼は、とても子煩悩で、家事もよく手伝ってくれた。
なにもかもが順調で、とても、とても幸せだった。
けれど、幸せな中で時折、一度過ごしたことのある、彼のいない20代と、砂時計を見詰めた記憶が蘇ることがあった。
そして、ある日、私は、彼に全てを打ち明ける決心をした。
彼は全てを聞き終わると、いつものように優しい笑顔で、
「きっと悪い夢でも見ていたんだよ、今のこの生活が本当の運命」と言い、
それでも、私の真剣な話し方に感じるものがあったのか、
「もしも、僕や君に何か悪いことが起ることがあっても、この幸せだった時間を忘れないで。
そして、いつまでも悲しんでいないで、新しい幸せに向かって歩き出す努力をしないといけないよね。」
と言うのだった。
それからも、相変わらずの穏やかな幸せが続き、私は29歳になっていた。
そして、明日は30歳の誕生日。
彼は明日の誕生日を早く帰って一緒に祝うため、今夜は遅くまで仕事してくるという。
息子は、初めて与えたおこずかいで、私へプレゼントしようとチョコレートを買ったが、
翌日までそれを隠しておけず、夕食の後、一緒に食べようよと持ってきた。
息子を寝かしつけた後、コーヒーでも煎れようとキッチンに立つと……
カウンターの上に、買った覚えのない砂時計があるのに気づいた。
……!
突然、いっさいの音が聞こえなくなり、心臓がドキドキとして、頭の中をさらさらと何かがこぼれ落ちるような感覚に襲われた。
思わず目をつぶってしまい、再び目を開けると、そこには羽のある人間が立っていた。
「私の命を取りにきたの?あなたは悪魔?」
「人ぎきの悪いこと言わないでよ。僕は悪魔じゃなくて、天使!
君が長い間同じことばかり思い続けて嘆いているから、夢を見せに来てあげたんだよ。
でも、僕が夢を見せてあげられるのは3分間だけ、もうすぐ砂時計が全部落ちちゃう。
もう夢から覚める時間だよ、あとは自分の力で立ち直らなくちゃ」
そう言い終わると、天使はふわりと舞い上がった。
「天使?夢?」
私はわけがわからず、だんだんと遠くなっていく羽のある後ろ姿を見詰めた。
さらさらさら……
頭の中で砂の落ちるような音が聞こえる。
ハッと我に返って辺りを見回すと、手元には、砂の全部落ちた砂時計と、
一瞥しただけで閉じてしまったお見合い写真の入った封筒があった。
私は、部屋に一人だった。
けれど、なぜか、さっきまでの投げやりな気分は消えていて、心の中に何か暖かなものが溢れ、
遠い昔のあの日の出来事さえ、受け入れられるような気持ちになっていた。
――新しい幸せに向かって歩き出す努力をしないといけないよね。――
なぜかそんな声が聞こえたような気がして、口の中にチョコレートの甘さが広がった。