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スイート・テン

2018/01/17

彼女の涙が頬を伝って、白い手の上に落ちた。

細い指を濡らす涙のしずくに、祭壇の明かりが反射して、アクセサリーのように煌いていた。

あんなに悲しそうな彼女を見たことはなかった。

僕は、胸の痛みを感じながらも、ほんの少し嬉しかった。

はじめて彼女に会ったのは、学生の時。

彼女のいる場所は、そこだけ光が当たっているかのように、明るく華やいでいた。

彼女はとても美しく、いつも大勢の友人に囲まれて笑っていた。

成績も優秀だと知ったのは、期末テストを終えた後のこと。

才色兼備の上、性格も良い彼女に憧れる学生は、数え切れない程だった。

そんな彼女と急速に親しくなったのは、母に拝み倒されて嫌々ついていった北島三郎のコンサートで、彼女とバッタリ出会ってから。

意外にも、彼女は演歌ファンで、中でも北島三郎は、コンサートに通いつめるほど好きだったらしい。

そのことを知っている友人はごく限られていて、僕は彼女と小さな秘密を共有することになった。

同じファンとして、母と彼女はおおいに意気投合し、コンサートが終わると演歌と彼の魅力を熱っぽく語り合った。

僕は、母とサブちゃんに感謝して、その日から彼のファンになった。

彼女と僕が恋人同士になるまで時間はかからず、すぐに結婚を約束するまでになった。

彼女の涙を見守りながら、出会いの頃をぼんやりと思い出していると、
突然部屋に入ってきたお姉さんが、彼女の前に立ちはだかり、手を大きく振り上げて思い切り彼女の頬を打った。

ハッとして顔を上げた彼女は、お姉さんに抱きつき、大きな声をあげて泣き出した。

なにも打たなくったって……。

抗議の目を向けていると、お姉さんが口を開いた。

「あなたがみんな悪いのよ、いつも傍にいたくせに、どうして気付いてあげられなかったの?
もっと早く病院に行っていれば、もしかしたら……」

「うっ…おねえちゃん…そう、私のせいかもしれない…… ごめん、な、さい……あなた……ぅぅうっ。」

彼女は声を詰まらせながら、絞り出すようにそう言った。

僕はだんだん居たたまれなくなった。

「あの人疲れてたみたいだけれど、週末はよく一緒に出かけてくれたの……
それなのに、仕事で帰りが遅いとなじって、あちこち連れて行って欲しいとねだって……
もっと優しい人を奥さんにしてたら、こんなことにならなかったか、も…えっ…えっ……」

語尾が嗚咽に変わり、可哀想で見ていられなくなった。

僕は彼女の後ろにまわり、その肩をそっと抱いて、柔らかい髪を撫でた。

ねえ、そんなに悲しまないで。

こんな形で、突然別れが来てしまったけれど、僕は決して不幸じゃなかった。

むしろ君に感謝しているんだよ。

忙しかった仕事だって、君という妻がいたから頑張ることが出来たんだし、
入院して衰弱していく僕の看病をさせずに済んでよかったとさえ思ってる。

けれど、もう、僕の声は彼女に届かなかった。

彼女はお姉さんの肩に頭を持たせかけたまま、いつまでも泣き続けていた。

僕は、隣の部屋の引き出しにある日記帳のことを思った。

僕がどれほど彼女を愛していたか、この結婚生活をどんなに楽しく思っていたかが、その日記帳には綴られていた。

それを見つけて読んでくれたら、僕がとても幸せだったことを彼女に伝えられるかもしれない。

日記帳は、先日行ったサブちゃんのコンサートパンフレットの下になっているはずだ。

引き出しから取り出して、彼女の元へ届けたかったが、もう体のない僕には、どうすることもできなかった。

ピピー、ピピー、ピピー

その時、静まり返った家の中に電子音が響いた。

襖の向こうで、鞄の中に入れたままの、僕の携帯電話が鳴っている。

彼女は隣の部屋へ行って、泣きはらした目であたりを見回し、音の発信源を探した。

鞄には気付かずに、机の上を探し、引き出しを上から順に開けた。

もう音は止まっていたけれど、彼女は引き出しの中のサブちゃんに目を留めた。

パンフレットを取り出すと、記憶の糸を手繰り寄せるように、視線を空中に泳がせた。

そして、引き出しの中にある、見慣れない日記帳を見つけた。

手にとってページを開いた彼女は、一瞬驚いたような顔をして、それからノートの文字に見入った。

そのまま床に座り込んで一心に日記を読む彼女の横顔は、学生の頃と変わらずとても美しかった。

僕は彼女の隣に座り、その横顔をずっと眺めていた。

最後のページを読み終えた彼女の目に、また涙が沸きあがってきた。

けれど、それは、さっきまでの涙とは、少しだけ違っているようだった。

形良い彼女の唇の端に、ほんの少しだけ微笑みが宿った。

「あなた、ありがとう……」

彼女が小さくつぶやく声を聞いて、僕の意識は薄れていった。

最後になってしまった日記のページには、こう記してあった。

<今日、10個目のダイヤを買った。来月の10周年記念日に間に合うようにブレスレットにしてもらうつもりだ。
きっと、君の細い手首に良く似合うだろう。
プレゼントしたとき、どんなに驚くかと想像するだけで、楽しい気分になってくる。
来月が待ち遠しい。>

日記帳と一緒に仕舞ってあった小さな箱の中で、10個のダイヤモンドルースが、きらきらと輝いていた。


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。