「おっちゃーん、ボールとってえや!」

野球帽をかぶった少年が走ってくる。

(3年生くらいやろか?)

俺はちらっと考えて、あの日のことを思い出した。

そう、俺が「天使」になった日のことを……。

「おっちゃん、ボール持ったままなにぼーっとしとんねん?」

「ああ、ごめんごめん、ちょっと考え事しとってん、堪忍してな。」

「ああ、ええで。おっちゃん、そのかわり一緒にキャッチボールせえへんか?
友達が風邪で相手がおれへんねん。」

くりっとした利発そうな目の少年は、いたずらっぽい表情で俺の顔を見上げている。

「そうやなぁ…… よっしゃ、いっちょやったるか!」

神様にお遣いを頼まれて、久しぶりに降りてきた地上やけど、
ちょっとくらいみちくさしたってかめへんやろ。

(それにしても、懐かしいな……
もしあのまま地上にいたら、俺にもこれくらいの息子がおったんやろか?)

-12年前-

「おい、亀岡!今日こそ、絶対彼女を誘えよ!」

「他人事だと思って…・そう簡単にいくかいな!」

「お前はでっかいずうたいしとるくせに、気がちーせーなあ、
ええやんか、振られたら、振られたで。」

悪友はえらい簡単にいいよるけど、そういうわけにもいかへんやろ。

俺にとっては一生一度の恋やねんから。

そやけど、やっぱり、今日こそは……

俺は映画のチケットを二枚、しっかりと握り締めて、
彼女がバイトする喫茶店のドアを見つめた。

と、そのとき、

店のドアを開けてエプロンのままの彼女が出てきた。

カールしたやわらかそうな髪が風に揺れている。

クリッとした大きな瞳が、通りの反対側に居る俺を見て、少しだけ微笑んだような気がした。

俺はドキリ!として、顔が熱くなるのを感じた。

キキーッ!!!

高鳴る心臓の音を掻き消すように、車が急ブレーキを踏む音が響いた。

瞬間、俺は走り出して、彼女を思いっきり突き飛ばしていた。

キャーーーッアアアア……

彼女の悲鳴が遠くなっていった。

「ご臨終です」

(え?いったい誰が死んでん?)

下を見た俺は驚いて飛び上がった。

下では、俺が死んでいた。

彼女が目を腫らして泣いている。

「私のせいで…私のせいで…… うっ、うぅ、ごめんなさい」

どうやら俺は彼女を助けて、代わりに車に轢かれたらしい。

(痛くも、苦しくもないんやなぁ)

不思議と冷静に考えていると、頭の上で声がした。

「おい、カメ、ようやったなあ」

そこに居たのは「神様」だった。

神様の話によると、人のために自分の命を投げ出して、
最後まで後悔せずに死んでいった人間は、みんな「天使」になるのだという。

そういえば、俺の背中には、綺麗な羽が生えていた。

「カメ、いくで!天国はエエとこやでえ」

その辺のおっさんのように気さくな神様は、
俺の腕を引っ張って、上へ上へと上っていった。

涙を流し続ける彼女の姿が、だんだんと小さくなった。

「おっちゃん、おっちゃん!」

「そんなにボーっとばっかりしとると、
お母ちゃんみたいに車にはねられそうになるで!」

「母ちゃんな、昔、轢かれそうになったとこを、
どっかの兄ちゃんに助けられて生きてんねんて」

「おっさんも、気いつけなあかんで」

そう言ってにっこりと笑った目は大きくクリッとしていて……

!?

(そうやったんか!)

俺は少年の肩に手を置くと、その目をしっかり覗き込んだ。

「よーっしゃ!バシバシ行くでー、
おっちゃんキャッチボールは得意やねん」

俺が救った命はこうして、しっかりと次の世代に受け継がれている。

少年の明るい瞳の輝きは、彼女の生活が幸せであることを物語っている。

しばらくキャッチボールを楽しんだ後、
俺はお遣いの途中だったことを思い出した。

「坊主、おっちゃんもう行かんとあかんわ」

「そうか、楽しかったのに、残念やなー」

「また、一緒にやってくれるか?」

「ああ、またいつか、な。」

「坊主、かあちゃんやさしいか?」

「うん、怒ると怖いけど、普段はやさしいで!」

「これ、かあちゃんにお土産や」

俺はジャケットの中に隠れた背中の羽を二枚、こっそりと抜き取って、
少年の目の前に差し出した。

「わあ!キレイな羽やなあ、おっちゃん、これ、何の羽?」

その質問には笑顔だけを返して、少年に手を振った。

その羽は、あの時渡せえへんかった映画チケットの代わりなんや……

もしもそんなふうに伝えたら、彼女、びっくりするやろな?

俺は驚く彼女の大きな瞳を想像しながら、
晴れやかな気分で神様のお遣いに向かった。


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。