「おはよう、澄香」
眠気を覚ます珈琲を飲みながら、キッチンカウンターに置いたままの腕時計に挨拶をする。
ひとり暮らしをしていると、よく独り言を言うようになると聞いたことがあるが、本当だなと思う。
澄香が出て行ってから一年。
時々彼女の時計に話しかけるようになったのは、いつ頃からだったろう?
「行ってくるよ」
また時計に声をかけて、これじゃあ連れ合いに先立たれたじいさんが仏壇に話しかけてるみたいだな、と苦笑した。
澄香は半年前まで僕の妻だった女性。
僕と同じコンピューターエンジニアで、松たか子似の美人だった。
僕達の結婚生活はとても楽しかったし、何の問題もなく上手くいっていると思っていた。
少なくとも、僕の方は……。
あの日、あのメールさえ読まなければ、僕達は今も続いていたのかもしれない。
いや、あのメールを読まなくても、遅かれ早かれ別れが来たことは疑いない。
僕は澄香という女性と、ちゃんと向き合っていなかったのだから。
その日、僕は久しぶりの休日を自宅でだらだらと過ごしていた。
仕事先の澄香から電話が入り、至急調べて欲しいメールがあると言われて、これまで触ったことのなかった彼女のパソコンに触れた。
必要なメールを探しているとき、一通だけサブジェクトの無いメールを見つけ、なんとなく気になって、後でこっそり読んでしまった。
それは、友人との他愛ない会話のような内容だったけれど、なぜかその後ずっと、そのメールが気にかかって仕方なかった。
半月後、澄香が出張で自宅にいない夜、押さえ切れなくなった好奇心に駆られて、とうとう彼女のパソコンを調べるという愚行に出た。
そこには、僕らエンジニアなら簡単に解けてしまうパスに守られた隠しファイルがあり、中には澄香がひとりの男とやりとりした夥しい数のメールがあった。
「やっぱり……」
思わずもらした自分の声にはっとした時、僕の両手は、嫌な汗でじっとりとしていた。
全てのメールを読み終えた後、僕は呆けた老人のように、自分のしていることがわからなくなった。
翌日、仕事から戻った澄香を着替えさせもしないまま座らせて、メールのことを問い質した。
突然の出来事に驚き、知らないと嘘をつこうとする彼女に、印刷しておいた大量のメールを突きつた。
言葉を失っている彼女の頬を、初めて思いっきり打った。
涙で濡れた頬に、判を押した離婚届を投げつけながら、「荷物をまとめて出て行け」と啖呵を切って外へ出た。
ぶらぶらと数時間を潰して部屋に戻ってみると、澄香の姿はもうなかった。
綺麗に片付けられたキッチンカウンターの上には、結婚してすぐ僕が彼女に贈った腕時計だけが、ぽつんとひとつ置かれていた。
澄香から長い手紙と捺印した離婚届が送られてきたのは、それから一週間が経った日のこと。
手紙には男との経緯と、僕に対する詫びの言葉が並べてあった。
澄香と特別な関係になったのは、僕の会社の後輩で、何度か自宅にも連れてきたことがある男だった。
街で偶然会って、雑談メールを交わすようになり、そのうち悩み事を相談するようになって……
という、よくあるふざけた話だった。
――あなたに話そうとしても、疲れてるからまた今度ねとやんわり拒否され続けるうちに、いつでも親身になって聴いてくれる彼の方を選んでしまいました。――
確かに僕は面倒な話しは避けたいと思っていたから、そんな一文に思い当たる節がないわけではなかったが、だからといって彼女の行為が許せるわけではなかった。
よく見知った男が澄香と……リアルに想像できるあれこれが怒りをさらに増長し、僕は手紙を破り捨てて、届けをすぐに役所に出した。
時間が経って落ち着いてくると、
別れる前にもう少し澄香の話を聞くべきだっただろうか?
という思いが浮かび、
さらに時が過ぎ去ると、悪いのは彼女ではなくあの野郎だけだったのかもしれないとまで考えるようになった。
その頃にはすでに、社内で思いっきりぶん殴ったその後輩の顔を見るのが嫌で違う会社に移っていた。
怒りが治まり気持ちが落ち着いてくるのと反比例して、澄香への断ち切れない思いが強まり、自分はこうなってもまだ彼女を愛しているのだと思い知らされる日々が続いた。
それでも、そのうち、新しく入った会社に居た、美由紀という事務の女性と、少しずつ親しくなっていった。
ある夜、僕は思い切って、美由紀に澄香とのことを全て話し、僕らはさらに深い関係になった。
そして数ヶ月前からは、美由紀はこの家で僕のために夕食を作るようになっていた。
最近では、食事を作るだけでなく、部屋の掃除もするようになり、家の中にあるものは、何でも自由に触るようになった。
けれども美由紀は、カウンターの上に置いてあるあの腕時計だけには、決して触れようとしなかった。
僕はいつの間にか習慣になっていた澄香の時計への挨拶を、美由紀がいる時にもついうっかり口にしてしまったことさえあった。
それでも美由紀は、何も聞かなかった振りをしてくれた。
ドアを出て歩きだした僕の頬に涼やかな風が当った。
もう秋だな……。
あの日のことをまた思い出したのは、秋という感傷的な季節のせいかもしれない。
あれからもう一年が過ぎたことを、改めて意識した。
長くて苦しい一年だったけれど、今は澄香の時計に話しかけるような余裕まであるのだ。
いや、もうそろそろ前妻の思い出に話しかける習慣など、やめなければいけないのかもしれない。
美しく有能だった澄香への、憧れにも似た強い思いは、簡単に消えるものではない。
けれど、僕が彼女に求めていたのは、完璧な妻としての澄香であり、彼女をただの弱い女性として受け止めて愛することはできなかったのだから。
そして、今も……。
風の噂で、澄香はあの後輩と別れ、勤めていた会社も辞めて、フリーのエンジニアとして頑張っていると聞いた。
彼女のことだから、いつまでも後ろを振り返ったりせず、前だけを見て歩いているのだろう。
僕もそろそろ……
そうだ、今夜美由紀を呼んで、あの時計を片付けてもらおうか。
そう思いついた途端、また涼しい風が吹いた。
高く突き抜ける青い空を見上げ、「もう秋だしな」と今度は声に出して言ってみた。