振り返ってみれば、あっという間だった。
25歳で結婚した夫は優しく、かわいい子どもたちにも恵まれた。
夫と喧嘩したり、子どもたちのことで悩んだり、
歳を重ねても働いている友人を見て、
主婦のままでいいのだろうか? と考え込んだこともあった。
でも、これで良かった。
平凡だったけれど、とても幸せな人生だったと思う。
今、私の手を握っているのは、きっと夫だ。
彼は、昔から温かい手をしていた。
「お母さん!」
私を呼んだのは長女だ。
長女は子どもの頃から良く通る美しい声をしていた。
もう50歳を過ぎているのに、声はまだ20代のようだ。
「おふくろ……」
どうやら、長男も来てくれているらしい。
こんなところに居て、仕事は大丈夫なんだろうか?
「ばあちゃん!」「おばあちゃん!」「ばっちゃん」
おやまあ、孫たちまで……。
そういえば、長男の息子は大学でなにやら難しい研究をしていたっけ。
何度も聞いたというのに、とうとう覚えられなかった。
長女の娘は音大のピアノ科で、
その弟は高校でサッカーをやっているはずだ。
どの子も皆、自慢の孫だ。
「おい、母さん!」
あなたったら、最後くらい名前で呼んでくれればいいのに。
もっとも、長女が生まれてからずっと私は“母さん”だったから、
今さら名前で呼べと言っても無理かもしれない。
笑ってみせたつもりだけれど、夫は気づいてくれただろうか?
その瞬間、握っている夫の手に力が籠った。
みんな、来てくれてありがとう。
あなた、あとのことよろしくね。
先に行って待っているから、あとからゆっくりきてちょうだい。
「おい、母さん!母さん!!」
モニターの波形が完全にフラットになって、
医師が静かに臨終を告げた。
「……というのが、1番人気の『家族に囲まれて』です。
当社でも、意外だったのですが、
ゴージャスな『オテル・エルミタージュ・モンテカルロで』や、
ドラマチックな『青い地球を眺めながら』や、
ロマンチックな『2人だけの夜に』よりも選ばれる方が多いのですよ」
担当者はダイジェスト版の臨終シナリオを再生し終えると、
にこやかにそう言った後、
「もちろん、登場人物をお好きな名前で呼んだり、
年齢や職業を変えてカスタマイズすることも可能です」
と付け加えた。
どんな怪我も病気も治せるようになり、
長い間憧れていた“不死”を手に入れてしまった人間は、
人口増加による様々な問題を解決するために、
脳だけをデータ化して生きる道を選んだ。
生きているのは脳だけであっても、
脳さえあれば、体を持っていた時代の人間と同じように、
全てをリアルに感じられるのだから、別に問題はない。
ところが、そうしてなおも生き続けるうちに退屈を覚えた人間は、
かつてあれほど忌み嫌っていた“死”に憧れるようになった。
今や、セレブたちの間で、死ぬことは大ブームだ。
もちろん、臨終シナリオを一度選べば、
もう、元には戻れない。本当の死を経験できる。
死に至る臨終プログラムは、
10種の中から好みのシチュエーションを選ぶシステムだ。
フィクションの中にしか存在しなかった臨終を、
もうすぐ経験できる期待に胸を膨らませながら、
私は、プログラムをオーダーした。
「『家族に囲まれて』でお願いします 」