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優しい嘘

2018/04/13

ザーッ……
つけっぱなしになっていたテレビはいつの間にか放映を終えていた。
またリビングで眠ってしまったようだ。
今日も、夫は帰って来ない。
いえ、正確には、帰ってこられないのだろう。
店長に昇進したのは2ヶ月前。
思いがけない抜擢に、会社の期待の大きさを感じ、
夫はその期待に応えようと必死になって頑張っている。
傍らの携帯に、夫からのメールが着信していた。
「今日も帰れそうにない、ちゃんとベッドで寝るんだよ」
私がこんなふうにうたた寝してしまうことを、
見通しているような文面が彼らしい。
この分では、もうすぐ来る結婚記念日も、きっと、忘れているだろう。
その朝は、昨夜の終電になんとか間に合った夫に、
朝食を食べさせてあげることができた。
彼は気づいていないと思うが、トーストに塗ったジャムは、
式をあげたホテルの特製で、初めての朝、彼が美味しいと言ったものだ。
ほんの少しでもいいから、「記念日」らしいことしてみたかったけど、
彼の負担になってはいけないから、あえて口には出さないでおいた。
夫の背中を見送りながら、ひとりこっそりつぶやいてみた。
「結婚3周年おめでとう」
甘酸っぱいジャムの香りが口の中いっぱいに広がる。
トーストしたパンにたっぷりと塗っても甘すぎないのは、
このホテルのジャムならでは、だと思う。
オムレツを口に運びながら、これではまるで朝食みたいだと思ったが、
どうしても、あのジャムが食べたかったのだ。
夕食をとれないことの方が多い夫は、
食事が必要なときだけ連絡してくることになっていたが、
今日は、連絡が入らなかった。
やっぱり、忘れていたのだ、と、少し残念だったけれども、
仕方のないことと思い直し、一人で食事を始めたところだった。
もう一枚パンを焼こうと手にとったとき、夫からメールが入った。
「結婚3周年おめでとう!食事がまだなら、あのホテルでお祝いをしよう」
あっ……!
私はすぐに、返信をした。
「もちろん、まだよ。すぐに出かける支度をするわ!」
残っていた紅茶を飲み干すと、大急ぎで片付けをした。
夫と一緒に戻ったとき、何か食べたことに気づかれないように、
テーブルを綺麗に拭き、洗った食器も全てきちんと棚に戻した。
洋服を着替え、お化粧を直して、「今から行きます」とメールした時には、
自分でも、食事をしたことなど忘れているくらいだった。
無理をして仕事を切り上げてくれた夫は、小さな包みを手にして、
ロビーで私を待っていた。
「おなかすいたわね」
歌うように口をついて出たその言葉が、「嘘」だと知っているのは、
すっかり中身が減ってしまった、あのジャムのビンだけだった。