うららかな春の陽射しが降り注ぐ土曜日の朝だというのに、

私はいつものバス停にスーツ姿で立っていた。

職場では、課長が土曜に会議を開くのは、

二日続けて家にいると奥様が嫌な顔をするからだ

というのがもっぱらの噂だ。

それにしても今日は本当に天気がいい。

少し汗ばむ程の陽気はスプリングコートを着てきたことを

後悔するほどだった。

こんな日にわざわざ会議をしに行くなんて……

いっそすっぽかしてどこかに遊びに行ってしまおうか?

という考えが浮かんだ瞬間、後ろから声をかけられた。

「あのう、お嬢さん……」

振り返るとそこには品の良い老女と、

柄の悪そうなサングラスの男性が立っていた。

「あのう、お嬢さん……大変申し訳ありませんが、

私にあなたのお時間を貸していただけないでしょうか?」

「え?時間……ですか?」

こんなところでセールスでもないだろうし、

“時間を貸して欲しい”とはいったいどういうことだろう?

「実は、今日、これから孫娘の結婚式があるんですが……」

うつむき気味に話し始めた老女は、そこで一旦言葉を切ると、

傍らの男性を振り返った。

「お迎えが来てしまったんです……」

恨めしげに男を見やって、涙声で言葉を続けた。

「私は数年前から病を患っていて、

自分の命がもう長くないことはわかっておりました。

そこで、少し前から身辺の整理も始め、

覚悟はすっかり出来ていたのですが……

たったひとつ、一番可愛がっていた孫娘の結婚式のことだけが気がかりでした。

この結婚式まではなんとしても生きていたいと思っておりましたし、

孫娘もまた、私の式への出席を強く望んでおりました……

なのに……うぅ……」

涙に詰まる老女の代わりにサングラスの男性が後を続けた。

「このばあさんのお迎えは今日の午前9時20分って決まってるんだけどね、

俺、まだ新人でさ、遅れちゃいけねえって慌ててきたらちょいと早く着いちまったんだ。

で、時間つぶしにばあさんの話を聞いてたらさ、

今日は孫娘の結婚式だっていうじゃないか。

俺さ、死に神はやってるけど鬼でも悪魔でもねーからよお、

話聞いてるうちになんとかしてやりたくなっちまってね。

その孫娘の式が終わるまで、ばあさんに時間を貸してくれる

若くて健康な人間を見つけようってね、さっきからこうして一緒に探してるんだ」

そう言いながらサングラスをはずした男性の目は、

意外にもとても優しそうだった。

私はからかわれているのだろうか?

それとも、この二人は頭がおかしいのだろうか?

驚きと疑問で何も言えないでいると、

涙声の老女とサングラスの男が声を揃えて頭を下げた。

「お嬢さん、どうかあなたの時間を貸してください!!」

その勢いに圧倒され、私はわけがわからないまま

ついコクンと頷いてしまった。

*************

お嬢さん、本当にありがとう。これで、心置きなくあの世に行けます。

ありがとう、お嬢さん、ありがとう、ありがとう、ありがとう……

「いえ、どういたしまして……」

自分の声にハッとして目を開けると、そこはバスの中だった。

そういえば、私は、休日出勤のためにバスを待っていたんだっけ。

でも……何かおかしい気がする。

何がおかしいのかわからないままバスに揺られ、

会社のある街でバスを降りてようやく気付いた。

空が、夕焼けに染まり始めていたのだ。

今朝は確かにいつも通り家を出たはずだったのに、

私はこんな時間まで一体何をしていたのだろう?

狐につままれたような気分のまま会社に急いだが、

入り口はすでに施錠されていた。

思い立って携帯電話を取り出すと、着信メッセージがいくつも残ってた。

「今日は良いお天気だからね、会議などすっぽかしたくなる気分も

わからんでもないが、連絡くらい入れたらどうだね?」

留守録を再生すると、課長の苛ついた声が響いて、

私は月曜こそ本当に無断欠勤してしまいたいと思った。

*************

目を開けても、視界はまだぼんやりとしていた。

「少し麻酔が残っているからゆっくりと起きあがってくださいね」

看護婦さんが優しく声をかけながら私の肩に手を添えた。

「しばらくは出血がありますけれど、一週間くらいで治まりますから

心配しなくて大丈夫ですよ」

出血……そうだった、私は今、お腹に宿った小さな命を

自分で消してまったところなのだ。

自分のお腹に手を当てて、そっとさすってみた。

今朝と何も変わらないように見えるこのお腹の中が、

今はもう空っぽになっている。

「うぅっ……」

突然涙がこみ上げてきて嗚咽が漏れた。

彼の赤ちゃん……欲しくなかったといえば嘘になる。

けれど、私は今大切なプロジェクトを任されていて、

どうしてもそれを成し遂げたかったし、

これからさらに忙しくなるであろう仕事のことを考えると、

まだ結婚するわけにもいかなかった。

だから、彼には内緒で病院に来たのだ。

私は後悔などしていない……はずだ。

これで何もかもスッキリとして、また明日から仕事をし、

彼ともこれまで通りつき合っていけばいい。

「ううっ、うっ……」

なのにどうしてこんなにも悲しいのだろう?

空になったお腹を抱いたまま、私は強い後悔に押しつぶされそうだった。

ああ、もしも時間を巻き戻すことができたら!

その時……

<お嬢さん、お嬢さん、お時間お返ししましょうか?>

品の良い老女の声が、どこからともなく聞こえてきた。

時間を?

どこかで聞いたことがあるような声の主を思い出そうと

私は一生懸命考えた。

あっ!そういえば……

その声が5年ほど前にバス停で会った老女の声だと思い出した時、

目の前はもう白く霞み始めていた。

************

「で、本当に堕胎でよろしいんですね?」

眼鏡の医師が抑揚の無い声で聞いている。

「堕胎?」

「ええ、失礼ですがあなたはあまりお若くないので

堕胎すると子宮が回復するまでにしばらく時間が必要になるかもしれません。

あまりおすすめはしたくないのですが、本当に堕胎してもよろしいんですね?」

私は辺りをきょろきょろと見回してみた。

医師の後ろの窓は細く開けられていて、爽やかな春風がカーテンを揺らしている。

忙しげな看護婦の足音や、待合室のざわめきが聞こえ、

壁の時計は午前9時20分を指していた。

そこは、今朝私が手術前に座った診察室の椅子だった。

「戻ったんだ!」

「え?何が戻ったんですか?」

「あ、いえ、あの、堕胎、止めます。やっぱりしません!

この子はちゃんと産んで育てます!」

「そうですか、それは良かった。

時々いらっしゃるんですよ、あなたのように当日になってやっぱり産もうと決心される方」

「それでは、また1月後にいらして下さい」

そう言いながら、眼鏡の奥で目を細める医師を見て、

あの時の死に神の優しい眼差しを思い出した。

「ありがとうございました!」

私は医師に深く頭を下げた後、空を仰いで大きな声でお礼を言った。