ラベンダーの香りのする湯船に浸かって、浮腫んだ足をマッサージしていると、
細く開けたバスルームの窓から、踏み切りを通過する電車の音が聞こえてきた。
沙代子は、もう十数分もすれば帰宅するであろう夫の顔を思い浮かべた。
沙代子の住むマンションは、電車の駅から徒歩5分の場所にある。
共働きのため、広さよりも利便性を優先した選択は間違っていなかったと思う。
いつも忙しい夫は、最終電車で帰ってくることが多く、沙代子はよくバスルームで夫を迎えた。
沙代子の名を呼びながら、ただいまよりも先にバスルームのドアを開ける夫は、
シャンプーをしている後姿が無防備で色っぽいなどと毎回沙代子をからかった。
泡だらけの髪にシャワーをあて、沙代子が目をつむったまま「お帰り」と言うと、
夫はようやくドアを閉めた。
沙代子がシャンプーを終えて、バスルームから出ようとする時、
ちょうど服を脱ぎ終えた夫が、沙代子をもう一度バスルームに押し戻すことも少なくなかった。
新婚というには無理がある年月を一緒に暮らしていた沙代子たちだったが、
子供がなく共働きのせいか、いつまでも恋人同士のような雰囲気があった。
バスルームで聞く踏切の音は、いつしか夫の帰宅を告げる時報のようになっていたので、
それを聞き逃さないように、沙代子はいつも窓を少しだけ開けて入浴するようにしていた。
今夜も沙代子が窓を細く開けて入浴していると、踏み切りの音が聞こえてきた。
いつものようにシャンプーを始めた頃、背後に人の気配を感じ、沙代子と呼ぶ声が聞こえた。
あっ……!!
沙代子は夫が何か軽口を叩くのを待っていたが、今夜の夫は珍しく何も言わない。
仕方がないのでお帰りと言おうとした時、夫がわっと泣き出した。
夫の泣き声に目を開けた沙代子は、自分が夫と自分を上から見下ろしていることに気づいた。
……!
あの時、シャンプーをしている沙代子の背後にいたのは、
ドアを開けた夫ではなく、窓から侵入した見知らぬ男だったのだ。
2階だからと安心して窓を開けていた沙代子の浴室を、
いつも窺っていた男がいたことに、沙代子は気づいていなかった。
無防備な姿のまま犠牲になってしまった沙代子を抱いて、
いつまでも泣き続ける夫を、沙代子はぼんやりと見下ろすことしかできなかった。
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「ねえ、あなた、ここに決めましょう!」
「そうだな、この立地条件なら中古でも悪くないな」
「最寄の私鉄駅は去年から高架上になりまして、
踏み切りによる渋滞もありませんので、お車での通勤でも大丈夫です。
お客様、こんなお値打ちな物件、他には絶対にありませんよ。
是非、お決めになってください」
「よし、ここに決めよう」
「ありがとうございます!それではさっそくこちらでお手続きを……」
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「あら?」
新居で過ごす最初の夜、令子が湯船に浸かりながら、夜風を入れようと浴室のルーバーを開けると、
どこからともなく踏み切りの鳴る音が聞こえてきた。
気にせずシャンプーを始めたが、音はまだ続いていた。
「ねえ、あなた!」
令子は気になって夫をバスルームに呼んだが、夫は、
「気のせいだろう、この近くには踏み切りなんてないからね」と軽く受け流し、
「それより、お前、シャンプーしている後ろ姿がなんだか色っぽいな」と令子をからかった。
「やあねぇ」と照れながらも、令子はまんざらでもなかった。
そんな二人を、じっと窺っている目があることに、二人は気づいていなかった。
シャワーの音と二人の話し声にかき消されてはいたが、
浴室にはまだ小さく踏み切りの音が鳴り続けていた。