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終点

2018/01/20

「いよいよ梅雨だな」

低く垂れ込めた雲にむかって大きくひとつ伸びをすると、孝夫は運転席に乗り込んだ。

湿気を含んだ空気のせいで、額にはじっとりと汗が浮かんでいる。

制帽をかぶり直して白い手袋をはめると、ハンドルに手を置いた。

この路線の運行も今日が最後だと考えると、感慨が沸いてくる。

待つ人もまばらな停留所には、“この路線は6月10日をもって廃止されることになりました。”
と書かれた紙が貼りつけられ、様変わりした窓の外の景色とあいまって、孝夫はつい涙腺が緩みそうになった。

あと5年で定年を迎える孝夫より先に、この路線がなくなってしまうとは……。

かつては通勤の足として重要だったこの路線バスも、地下鉄の発達やマイカー通勤の普及ですっかり乗客が減り、
運行する本数を極限まで減らした後、とうとう廃線が決まった。

「次、止まります」

アナウンスのテープを流し、停留所前でブレーキを踏む。

降りていく乗客に「ありがとうございました。お気をつけて」と声をかけても、返ってくる返事は無い。

時代と一緒に、人の心も移り変わっていることを実感する瞬間だ。

あの頃……そう、まだバスの運転手と乗客の間で言葉を交し合うことが普通だった頃、
運転手に成り立てだった孝夫は、この路線の担当になる日をとても楽しみにしていた。

それは、いつも決まった時間に途中の停留所から乗り込んで、終点まで乗って行く美しい女性がいたから。

薄暗い田舎道に差し掛かる終点で降りる彼女に、「お気をつけて」と声をかけ、
「はい、ありがとうございます」と答えてもらう度、いいようもなく幸せな気もちになった。

思い切って挨拶以上の話をしたのは、初めて彼女を見かけてから半年程経った時のことだった。

彼女の務め先が市内の宝飾店だと知ったのは、さらに半年先のこと。

孝夫は数ヶ月後の彼女の誕生日には、そのお店で買ったものを彼女にプレゼントしようと決心し、
昼食まで抜いてお金を貯めた。

けれど、その宝飾店は、孝夫が想像していたよりもずっと高級な店で、
自活している若い孝夫が貯められた程度の金額で買えるのは、
針金のように細いリングの先っぽに可哀相なくらい小さな宝石のついた指輪だけだった。

それでも、孝夫はそれを買って、その場で彼女にプレゼントした。

それから、孝夫と彼女は急速に親しくなって、終点が近づいて他の乗客が皆降りた後の車内は、
二人だけのデートの場所になった。

彼女が降りる間際、こっそりキスをしたこともあった。

本当に良い時代だったと思う。

辺りはすっかり暗くなり、最後の運行も終点が近づいてきた。

すでに、車内に乗客は居ない。

終点の停留所には止まることなく、車庫へ向かうことになりそうだ。

少し寂しくなりながらも、勤務を終えようとしている安堵を感じ初めていた時、
前方の停留所に人影があるのに気づいた。

ゆっくりとブレーキを踏んで停留所の前でバスを止めると、そこに立っているのは孝夫の妻だった。

ドアを開けたバスに乗り込んできた妻は、いたずらっぽく笑いながら、
針金のように細いリングのはまった指を見せた。

家事と育児ともろもろの理由で、あの頃よりずっと逞しくなってしまった妻は、
薬指にはもうはまらなくなったそのリングを小指にちょこんとはめていた。

「この路線、今日が最後の運行だったのね。なんだか寂しくなって、来ちゃったわ」

流れた時は妻の姿も大きく変えていたけれど、孝夫を真っ直ぐ見詰める綺麗な瞳はあの頃のまま、
少しも変わっていなかった。

孝夫は妻のふくよかな手を取ってぎゅっと握ると、あの頃のように少し照れた声で言った。

「ありがとうございました。お気をつけて」

幸せな気持ちでバスを車庫へと回送しながら、孝夫は、妻にもう少し大きな指輪を買ってやらなくては、と思った。

 

このショートストーリーを掲載のウオッチコレメールマガジン「ブリリアントタイム」は、
隔週金曜配信です