「ねえ、あなた、私、お仕事に出てもいいかしら?」
終電で帰宅して、レンジで温めた夕食の皿をつついていると、パジャマ姿の妻が話しかけてきた。
「仕事って……」
結婚して5年、俺の仕事は年々忙しくなる代わりに、昇進も順調で、
妻が生活の心配をする必要のない給料をもらっていた。
「お金に困っているわけじゃないだろう?」
「お友達がね、輸入化粧品の代理店を始めたの。
商品は薬草を原料にしたナチュラルなもので、ヨーロッパではたくさんの人が
使ってるんだけれど、日本にはまだほとんど入ってきていないから、
訪問販売の形をとって、説明しながら売るんですって。
それで、ね、私に、そのお手伝いをしてほしいそうなの……」
「なんだ、化粧品のセールスか。お前には無理だよ、簡単には売れやしない」
広げた新聞に視線を戻し、まだ何か言いたそうにしている妻をさえぎった。
妻はそれ以上何も言わずに休んだので、納得して諦めたものと思っていた。
が、しばらくして、妻がその仕事を始めていたことを知った。
少しいやな気分にはなったが、どうせ僕が会社に行っている間だけのことだし、
大目に見てやることにした。
その日読んでいた新聞には、気味の悪い事件が載っていて、
暗くなってからも一人でいることの多い妻のことがほんの少しだけ心配になった。
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「またですかぁ?」
若い刑事が間の抜けた声を出して顔をしかめた。
ここのところ、この管轄では、昼間自宅に一人きりの女性が薬を飲まされ眠っている間に指を切り落とされる、
という気持ち悪い事件が続いていた。
使われた薬はまだ断定できていないが、一時的に記憶を失くす作用があるらしく、
どの被害者も、事件前後の記憶がすっぽり抜け落ちていた。
そんなことで、捜査はなかなか進展しないまま、被害者の数だけが増えつづけていた。
「きっと、頭のイカレタ野朗の仕業だ、行くぞ!」
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彼は今夜も遅いようだ。
毎日仕事仕事と言って、一緒に夕食をとることが無くなったのはいつからだったろう?
私は一人で食べた夕食の皿をシンクに運んで、水道の水を出しながら、
あの日のことを考えていた。
あの日、たまたま訪ねたのは、高校時代の同級生の家だった。
昔から何でも自慢するタイプの女性だったけれど、
主婦となってその態度には拍車がかかっていた。
仕事などどうでもいいからすぐに帰ろう、と思った矢先、
彼女が最近ご主人に買ってもらったという指輪の自慢をしはじめた。
どこにでもあるような指輪などちっとも羨ましくはなかったが、
彼女のご主人が結婚記念日をちゃんと覚えていて、
プレゼントを贈っていることが羨ましかった。
指輪を誉めたことに調子づいた彼女は、その後、
自分達がどんなに仲が良くて幸せな暮らしをしているかを長々と話しだした。
吐き気がするほどうんざりとしながら、高校時代にも同じようなことがあったことを
思い出していた。
そして、聞いているうちだんだん、殺意にも似た嫉妬と憎しみの念が沸いてきた。
だから、もう一度彼女を訪ねて……
その後のことは、まるで映画でも見ていたように現実感がなく思えるのはなぜだろう?
すぐに見つかって咎められると思っていたのに、誰も私を疑わなかったから、
私は中毒患者のように、「ソレ」を繰り返している。
もしかしたら、はやく夫が気付いて叱ってくれることを望んでいるのかもしれない。
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今夜も最終電車になってしまった。
今日は何か忘れていることがあるような気がする。
喉元まで出掛かっている事柄が思い出せないのは、気持ちが悪いものだ。
電車を降り、バスがなくなってしまった自宅までの道のりを歩きだした。
もう12月か、そろそろコートが必要だな。
深夜の歩道は冷え切っていて、足元から這い上がってきた冷気が身を震わせた。
自宅が見えてくると、珍しく、部屋に明かりが点いていた。
明かりのある部屋へ帰るのは、やはり嬉しいものだな、
軽い笑みがこみ上げたとき、なかなか思い出せなかった大切なことを思い出した。
今日は、僕らの結婚記念日だった……。
新婚の頃は、こんなに素晴らしい日を忘れる奴がいるなんて信じられないと思っていたものだが、
こうして当の本人がすっかり忘れてしまうのだから困ったものだ。
僕は自嘲気味にもう一度笑った。
すぐ妻に謝って、週末は久しぶりにふたりで食事にでもでかけよう。
そう考えながら、自宅のドアを開けた。
「お帰りなさい、あなた。ね、見て、今日はツリーを飾ったのよ」
リビングから明るい声がして、さっきまで点いていた明かりが消え、
代わりに点滅するツリーの電飾が光るのがわかった。
リビングの真ん中に置かれた大きなツリーには電飾と一緒にその明かりを反射して
キラキラと光る小さな飾りがいくつもついていた。
「綺麗でしょ、あなた」
「ああ、綺麗だね」
「あなたがそう言ってくれて嬉しい!」
妻はにっこりと微笑んで言ったが、その目は僕を通り越してどこか遠くの方を見ているようだった。
慌てて今日のことを謝ろうと口を開きかけたとき、妻がまたリビングの明かりを点けた。
「!!」
リビングに明かりが点くと、電飾に反射して光っていたのが、
色とりどりの指輪だったことがわかった。
どれも、すべて、指にはまったままの……
僕は言葉を失って、ただその場に立ち尽くした。
妻は、視線を宙にただよわせたまま、にっこりと微笑んでいた。
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「あんな大きな家で何不自由なく暮らしている奥様の犯行だったんですねぇ」
若い刑事は首をかしげながら、先日の調書を読んでいた。
「切り取った指をツリーに飾ってたなんて、やっぱりイカレちゃってたんだろうけど、
どうしてそんなことしたんでしょうねぇ?」
「おまえ、ウサギは寂しいと死んでしまう、っていう話を知ってるか?
彼女もきっと寂しかったんだろうなあ。
仕事仕事で結婚記念日さえ一緒に食事できない夫と暮らしているのが」
「亭主元気で留守がいい、っていうんじゃないんですかね?」
「まあ、まだ彼女もいないお前なんかにはわからないかもしれないな」
俺は笑いながらそう言ったが、こんな事件がまたいつ起ってもおかしくないような気がしていた。
たった一つ、救いがあったのは、奥さんを自首させた夫が、
その後、奥さんの好物を持って毎日面会に来ていることだろうか。
彼女はやがて病院に移されることになるだろう。
夫は、精神を病んでしまった彼女が、元の心と笑顔を取り戻すまで
ずっと彼女の傍にいるつもりだ、と言っているそうだ。
このショートストーリーは、ウオッチコレメールマガジン「ブリリアントタイム」に掲載されています。