このお話は、『窃盗犯』の続編です。
合わせてお読みいただくとよりお楽しみいただけます。
激しく燃え上がった恋が長続きしないことなど解ってはいたけれど、
あまりにも早く過ぎ去った日々は、現実だったのかどうかさえ定かでないように思う。
独りきりになった部屋にポツンと座り、失くしたものの大きさを思い知った。
ほんの4カ月前、私は夫を欺いて、年下の恋人と逃避行した。
しばらくは遊んで暮らせるだけの金品を持ち出していたから、
そのまま二人で南の島に飛んだ。
私たちを知る人が誰もいない島で、波の音と、鳥の声と、
愛の囁きだけを聞いて過ごした日々は、まさにパラダイスだった。
帰国しても用意してあった部屋には戻らず、
桜前線を追いかけるように、日本を南から旅してまわった。
そんな暮らしをしていたから、1年以上は生活できるはずの貯金も、瞬く間に減っていった。
ようやく部屋に落ち着いたのは、このあたりの桜も散り始めた頃。
生活に必要な道具をそろえ、職場を探す私とは裏腹に、
彼はまだ旅を終わらせたくないようだった。
それでも、もう、旅を続けながら暮らしていくだけの金銭的余裕がないことが解ると、仕方なくアルバイトを始めた。
ところが、それから10日と経たないうちに、彼がアルバイト先で怪我をした。
日雇いのようなアルバイトでは、仕事中の怪我でも何の保障も受けられず、
ちょっとした手術の費用と、二週間分の入院費を支払ってしまうと、手元の現金は殆ど無くなった。
私は家を出て初めて、これからの生活に不安を感じた。
それなのに、退院してきた彼は、私の指輪に目を留めると、
「今度はそれを売って美味しいものでも食べにいこう」
と信じられないことを言った。
それは、たった一つだけ売らずに残してあった私の貴金属で、
夫が最後に買ってくれた指輪だった。
「これは、イヤよ」
一緒に暮らすようになって初めて彼の言葉に逆らった。
一瞬表情を変えた彼は、力づくで強引に私の指輪を抜き取ると、
何も言わずに出て行ってしまった。
家具もろくにない殺風景な部屋で、どれくらいぼんやりしていただろう?
夕暮れが近づいた頃、彼が戻ってきた音がした。
指輪が思いの他高額で売れたらしく、彼はとても上機嫌だった。
座り込んだままの私を後ろから抱きすくめると、
「ごめん」
と言いながら首筋にキスした。
その時、ようやく、私は重大なことに気が付いた。
私が愛して溺れていたのは、無神経なこの年下の男ではなく、
現実から逃避させてくれたドラマチックな日々だったのだと。
床の上に押し倒された時、思わずつぶやいていたのは、
見限ったはずの夫の名前だった。
どんな時でも冷静で、余裕のある態度をくずさなかった夫は、
今、どうしているのだろう?
涙がとめどなくあふれ出して、夫のことで頭が一杯になった。
彼は私の体から離れ、うわごとのように夫の名前を呼び続ける私を、
気味の悪いものでも見るような目で眺めた。
いつまでも泣き止まない私に、彼は、
「楽しかったよ」
とだけ言い残して逃げるように部屋を出て行った。
独りきりになった部屋が夕闇に包まれても、電気をつける気力さえなかった。
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恋人との時間が楽しかったのは、きちんと家庭を守る妻がいたからだと解っていたけれど、
彼女がいなくなってからの4カ月間は、そのことを確認するのに十分な時間だった。
簡単だと思っていた家事は、想像していたよりもずっと重労働で、
仕事に神経を集中させることが、だんだんと難しくなってきた。
地方にいる恋人が日常的に身の回りの世話をしてくれるはずもなく、
忙しさにかまけて連絡できないでいるうちに、新しい男に乗り換えてしまった。
独りの食事をインスタント食品で済ませ、どこかにいる妻を思った。
翌日、遠方の仕事先から帰る途中、ある店のウインドウに見覚えのある指輪を見つけた。
立ち止まって看板を見上げると、そこには「質」の文字があった。
なんともいえない感情がこみ上げ、すぐに店のドアを押した。
あの指輪は間違いなく、僕が妻に買ったもの。
それをこんなところに持ち込まなくてはならないほど、
彼女の生活が困窮しているのかと思うと、居ても立ってもいられなかった。
店の主人に頼み込めば、指輪を持ち込んだ妻の居場所を教えてもらえるかもしれない。
店の中に入って行くと、カウンターの主人に向って何か話している女性が居た。
そのほっそりとした後姿は、紛れもなく妻のもの……
「由佳……」
振り返った妻の顔が、驚きから安堵の表情に変わるより早く、
涙が視界を遮って、涙ぐむ妻の顔がぼやけていった。
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「行ってらっしゃい」
「行ってくるよ」
「ね、早く帰ってきてね」
「ああ、できるだけ早く戻るよ」
彼がおでこにキスをして、今朝も爽やかに出勤する。
趣味の良いスーツに包まれたスマートな後姿を見送っていると、
ここに戻ってこられたことが奇跡のようだと思わずにはいられない。
私は、今、夫の傍に居られる幸せを心から感じていた。
夫の元から飛び出したあの日に居合わせた親友の奈津美は、私の行動に目を丸くしていた。
今、またこうして夫と暮らし、平然とキスを交わす私たちを見たら、
奈津美はどんな顔をするだろう?
ここに戻ってきたことを知らせるのは、もう少し先にしようか。
夫の軽やかな足音が遠ざかっていくのを聞きながら、そんなことを考えていた。