それは、押してはいけないボタンだったのかもしれない……。

夕食の支度に追われながら、雄太がしているテレビゲームのピコピコという電子音にいらついていた。

「雄太、いいかげんにしなさい!いつまでゲームで遊んでるつもり?」

「宿題は終わったの?」

振り返りもしないまま、怒鳴るように声をあげる。

携帯メールの着信音が鳴って、夫からの短い通信文が届く。

<今夜は遅くなる>

はぁ……。

もう少し早く連絡してくれれば、こんなもの作らないで済んだのに。

湯気を立てている鍋の中のイカ大根を恨めしく思う。

イカだって大根だって安くないのよ、あなたが食事をしないのならば、雄太と二人でラーメンでも食べてこればよかったわ。

心の中で悪態をつきながら、ふと、思う。

こんなはずじゃなかった。

12年前、夫は社内で一番人気の営業マンだった。

20代ですでに将来は部長確実と噂される優秀な仕事ぶりと、人当たりのよい話し方は群を抜いていた。

優しげな笑顔に憧れる女子社員も多く、こっそりと社内恋愛していた2年の間、彼から贈られた趣味の良いアクセサリーを同僚に誉められる度、誰にも言うことのできない優越感に包まれるのだった。

婚約が整って、薬指にダイヤをつけて出社したときには、社の女子社員から一斉に嫉妬と羨望の眼差しを向けられた。

とても、幸せだった。

けれど……

一生涯安泰と思われていた夫の会社が、まさかの倒産に追い込まれた後、生活は一変した。

再就職はすぐに決まったものの、収入は激減し、以前のようにゆとりのある暮らしではなくなった。

「愛情はお金で買えない」というけれど、お金のやりくりに追われる生活では、愛情さえも見失いそうになる。

私は、疲れていた。

こんなはずじゃなかった。

もしも、人生をやり直すことができたら……

菜箸を持ったまま、ぼんやりと眺めていたキッチンの壁に、赤いボタンがあることに気付いたのは、そのとき。

こんなところにボタンなんてあったかしら?

吸い寄せられるように伸ばした人差し指が赤いボタンに触れ、ゆっくりと押し込んだ、
そのとたん……

目の前にあったものは全てなくなり、私の体は真っ白な闇に、つまり、全く何もない空間に放り出された。

う、そ…?

本当に、何も無い、「無」という字を情景にすると、こんなふうになるのかもしれない。

ピコピコピコ……

どこからともなく、ゲーム機から出るような電子音が聞こえてきて、ゲームの中にでも出てきそうな、不思議な生き物が近づいてくる。

「あーあ、リセットしちゃいましたね。面白い展開になってたのにな~。」

しきりと首をふりながら、おかしなイントネーションで喋る生き物が、私に質問を投げかけてきた。

「で、奥さんはこれからどうします? 再スタートの場合、これまで手に入れたアイテムはみんな消えちゃうんですよ。」

アイテム? 消えちゃう?

「消えちゃうってどういうこと? 冗談じゃないわ! 雄太はどこ? 私を家に帰してちょうだい!」

「奥さーん、リセットしたのは奥さんですよ」

その生き物は小さな目をチカチカとさせながら、非難めいた口調で言った。

「でも、今回は特別、ということで、奥さんの記憶の中から、はっきりと思い出せるアイテムだけ返してあげてもいいですよ」

「いいですか、はっきりと思い出せるものだけですよ」

生き物は意地悪そうに念を押した。

私が一番大切なのは……

雄太、そうよ、雄太だわ!

目をとじて、雄太のことを思い出そうとする。

自分の大切な息子だもの、はっきり思い出すなんて簡単。

けれど……

雄太を思い出そうとすると、背中を丸めてゲーム機に向かう後ろ姿ばかりが浮かんでくる。

ピコピコピコ……

雄太……

必死になって、雄太の笑顔を思い出そうとすると、それは、何年も前、まだ雄太がよちよちと歩いていた頃の顔になった。

こんな状況の中だから、気が動転しているんだわ、
私は、雄太を思い出そうとするのを一旦やめて、夫のことを考えてみた。

ぼんやりと浮かんできた夫は、食卓に座っている。

ピピピッ……

夫を思い出そうとすると、携帯の着信音が響く。

携帯画面の短い文章はいくらでも思い出せるのに、夫の顔はぼんやりとしたまま。

あなた……

ようやくはっきりと思い出した夫は、食卓で新聞を広げていた。

そして、その顔は、新聞に隠れて見えない。

私は、愕然とした。

この数年間、私はいったいどういう暮らし方をしていたのだろう?

愛する家族であるはずの、息子や夫の表情さえ、まともに思い出せないなんて……

「奥さーん、アイテムひとつもいらないの?」

チカチカした目の生き物がいらいらとした口調で聞いてくる。

どうしよう……

どうしよう?

ガクガクと足が震え、涙がこみ上げてきた。

溢れ出した涙を左手でぬぐった時、薬指のリングが濡れて小さく光った。

あっ……

リングに乗った涙のしずくは、まるで、あの日のダイヤのようだった。

最高の喜びに輝いていたあの日、彼と一緒ならば、何でもできる、絶対に幸せになれると確信していたあの日。

そうだった。

これは、私が自分で選んだ人生。

誰に与えられたのでも、誰かから押し付けられたのでもなく、私が、自分自身で選んで歩いてきた道のり。

幸せな家庭は、与えてもらうものではなく、家族と一緒に作っていくものだということを……

満ち足りた生活は、当たり前にあるものではなく、思いやりと笑顔の中で育んでいくのだということを、
忘れてしまったのはいつからだろう?

不満ばかりに目を向けて、家族に対する笑顔も優しさも忘れていたのは、私。

人生はゲームじゃないのだもの、例えリセットすることができたって、自分自身が変わらなければ、同じことの繰り返し。

あんなボタン、押すんじゃなかった!

大切な私の人生を、これまで選んできた人生を、リセットなんてしたくない!!

「奥さーん、アイテム、ひとつもなしで再スタートするの?」

「しょうがないな、じゃ、わたしが適当にみつくろって…… で、どのステージからやり直したいの?」

「リセットを取り消してください」

ゆっくりと、そして、はっきりと、私はその生き物に向かって言った。

「私、リセットなんてしたくないの、あれはただの間違い。全て、元のままに復元してちょうだい!」

「奥さーん、そりゃないでしょ、なんのために私がここまできたんだか……」

「でも、ホントに復元でいいの?こんなチャンス、もうないよ?」

「復元、が、いいの。」

「はやく!」

「はいはい、ヘンな奥さんとこきちゃったなー」

「じゃ、元に戻すよ、ハイッ」

生き物が真っ白な空間の中に浮いた黒いボタンをボンと押した。

ピコピコピコ……

ボコボコ…ボコッ…ボッ

「かあさん!なにぼーっとしてるの?お鍋ふいてるよ!」

ちゃんとしたイントネーションで話す雄太の声がする。

ここは、私の家。

ピコピコ…… カチッ。

「かあさん、いい匂いだね、それ、父さんの好きなイカ大根でしょ。
汁、ちょっとこぼれちゃったね。火傷、しなかった?」

ゲームを止めた雄太が、傍に来て心配そうに私の顔を覗き込んだ。

夫によく似た優しい目がじっと私を見ている。

大好きなこの目を、どうしてちゃんと思い出せなかったのだろう?

「雄太、ごめんね」

雄太の頭をぎゅうっと抱きしめながら謝った。

「かあさん、どうしたの?なんかヘンだよ」

「そうね、かあさん、ちょっとヘンだったのよ」

ピピピッ

そのとき、携帯メールの着信音が響いた。

<思ったより早く帰れそうだ、夕食、用意できるかな?>

私はすぐに返信をした。

<今夜はあなたの好きなイカ大根よ>


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。