[大変、助けて!]

日曜の昼下がり、ゴルフ番組を見ていると、妻から携帯にメールが入った。

なんでもちょっと大げさな妻のこと、「大変」と言ったって、
メールで伝えてこられる程度の問題だし、そんなに切羽詰まったことでも無いだろう。
そう思いながらも、一応は、[どうした?]と返信してみた。

[自転車の鍵、失くしちゃったの、(^-^;…]

どうせそんなことだろうとは思ったが、鞄を全部ひっくり返して、何度もあたりを探したあげく
動かすことの出来ない自転車の前で半べそをかいている妻を思うと、少し可哀想になった。

行ってやるか。

工具箱を開けて、鍵を壊すのによさそうな道具を2つ3つ選びながら、ふと、遠い昔の記憶が蘇った。

そういえば、あの時も……

あれは、俺が中学生のころ、学校帰りによく寄っていた本屋の駐車場だったと思う。

「あの…… 高橋くん、助けて欲しいことがあるの……」

今にも消え入りそうな声で、控えめに話しかけてきたのは、宮内順子。
清潔そうな長い髪をした、おとなしくてあまり目立たない女の子だった。

「自転車の鍵、落としちゃったの」

それは、宮内順子と挨拶以外で初めて交わした会話だった。

「落としちゃった? じゃあ、ここまでどうやって来たの?」

「自転車で……」

宮内順子は顔を真っ赤にして、今にも泣き出してしまいそうだった。

それほど大きな店ではないから、ちょっと探せば出てきそうなものだが、
彼女の顔つきを見ると、もう、万策尽きたという感じで、助けてやらないわけには行かなかった。

「一生懸命探したんだけど……」

宮内順子は、どの言葉も語尾が消え入るような話し方だ。
これ以上の質問は拷問に近い気がして、彼女の自転車が動くようにしてやろうと思い、
あたりにあった大きめの石を手にとった。

鍵を壊している間、宮内順子は隣にしゃがんで、俺の手元を見詰めていた。
長い髪が風に揺れる度、ふんわりといい匂いがした。

俺はだんだんドキドキとしてきて、少しでも早く鍵を壊そうと、石を持つ手に力が入った。

ガンッ!

やっと鍵が外れて横を見ると、ホッとしてにっこりと笑った宮内順子の横顔があった。

こいつ、近くで見るとけっこう可愛いんだな……。

真近で見た宮内順子の横顔は鼻筋がすっと通り、
少し下がった目じりを外を向いてはねた睫が縁取っていて、
目立たない印象とはうらはらに、華やかささえあった。

そういえば、横顔が美しいのが本当の美人、だなんて聞いたことがあるな、
そんなことを考えながら宮内順子を見ていると、視線に気付いた彼女がこちらを向いて、
また真っ赤になりながらお礼を言った。

「高橋くん、ありがとう……」

その日をきっかけに、俺たちは急速に仲良くなった。

自分で言うのもおかしいが、俺は昔から良くモテて、
いつもクラスの中心にいるようなタイプだった。

そんな俺が、あまり目立たない宮内順子と一緒にいるのを、
クラスの仲間は不思議に思っていたようだ。

とくに何かを打ち明けあったわけではないが、
昼飯を一緒に食ったり、ときどき一緒に帰ったりした。

そんなことがひと月ほど続いたある日の昼放課、
宮内順子がいつになく真剣な顔で俺のところへやってきた。

手に封筒を持っている。

あの語尾の消えていく話し方で、
「高橋くん、これ、読んでほしいんだけど……」
そう言って、持っていた花模様の封筒を差し出した。

手に取って中を開けようとした瞬間、後ろから悪友の声がした。

「おーっ!高橋が宮内からラブレターもらってるぞー!」

教室中に響き渡るような大きさで叫んだ悪友の声で、
部屋に居た全員がこちらを振り返った。

俺はたまらなく恥ずかしくなって、宮内順子に封筒をつき返すと、
悪友達と一緒に教室の外に出てしまった。

真っ赤になってうつむいたまま、唇を噛んでいた宮内順子の横顔を、
今でもはっきりと思い出すことができる。

あの封筒の中身はいったいなんだったのだろう?
もし本当にラブレターだったとしたら、どんなことが書いてあったのだろう?

おとなしい宮内順子が、勇気を振り絞って渡したはずの大切な封筒を、
あんなふうにつき返してしまったことを、どう謝ったらいいのかわからず、
その週は彼女に話しかけることができなかった。

連休を挟んで3日ぶりに登校すると、彼女は学校に来ていなかった。

宮内さんはお宅の事情で突然転校することになりました。と先生が告げたとき、
俺はかなり動揺した。

鍵が外れたときの嬉しそうな横顔と、封筒をつき返したときの悲しげな横顔が、
交互に思い浮かんできて、その日は何も手につかなかった。

宮内順子、今頃どうしてるかな?

あの可愛らしい横顔で、食事の支度なんかをしている様子が、
まるで見たことでもあるようなリアルさで思い浮かんだ。

作った料理を美味しいと言ってもらえるかどうか心配で、
食べている男の口元を、息を詰めて見ている横顔が見えたような気がした。

なぜか、軽い嫉妬を感じた。

自分の妄想に嫉妬するなんて、と苦笑していると、
甘い感傷から呼び戻すように、再び携帯電話が鳴った、
今度はメールでなく、妻からのコールだ。

「ね、あなた、助けに来てくれる?」

明るいけれど甘えるような、語尾のはっきりとした話し方で、良く通る妻の声。

「仕方ないな、休日出勤は高いぞ」

笑いながらそう答えると、ホッとしている妻の横顔が思い浮かんだ。

長いまつげが美しい妻の横顔には、無邪気な笑みが広がっているだろう。

あの日、俺の心に焼きついた女の子のプロフィールは、
そのまま、妻選びの基準になっていたのかもしれない。

記憶と想像の中の宮内順子に別れを告げると、俺は妻の待つ駅へと急いだ。