「たった1つの決断が人生を変える」
というのは自己啓発書でよく見かける文句の1つだ。

だが、私の人生は正に、あの時の思い切った決断で変わった。

あれは14年前の夏の終わりのこと、
残業帰りに立ち寄った飲み屋街の路地裏で初老の占い師に会った。

その辺りで飲むことは少なくなかったが、
占い師を見かけたのは初めてだった。

看板も電灯もなく、「占い」と書いた机を前に座っている老人を、
すぐ脇の街灯が照らし出していた。

その占い師の、見えないものを見ているような目が気になって、
思わず足を止めたのだ。

当時、年上の女性と付き合っていた私は、
3年目に入った関係をどうにかしなくてはいけないと考えていた。

彼女は、同級生だと言っても通用するほど若々しくて魅力的だったが、
年齢は10も上のバツイチで、小学生の娘までいた。

少し遊んだらすぐに別れるつもりで付き合い始めたというのに、
数か月もしないうちに別れることなど考えられなくなって、
気づけば2年が過ぎていた。

ある日、彼女や彼女の娘と一緒に食事をしていて、
本当に幸せだと感じている自分に愕然とした。

彼女が結婚を望んでいる様子は微塵もなかったし、
別れたいと言えば、微笑んですぐに受け入れてくれるに違いなかった。

だが俺は、まだ彼女と別れたくなかったし、
かと言って、結婚する勇気もなかった。

海外勤務の打診を受けたのは、そんな矢先のことだった。

上司は、しばらく日本には戻れないから、
付き合っている女性がいるなら、身を固めて連れて行ってはどうかと言った。

これを機に彼女ときっぱり別れるべきか?
それとも……

普段なら見向きもしないはずの占い師に
引き寄せられるように近づいて行って声をかけた。

「あの、ちょっとみてもらえますか?」

多くを語らない占い師に信頼感を持った私は、
彼女のことや自分のことを、堰を切ったように話した。

あれほどまでに素直な気持ちを他人に吐露したのは初めてだった。

穏やかな表情で話を聞き続けていた占い師が
ほんの一瞬顔色を曇らせたのは、
「やっぱり彼女とは別れるべきでしょうか?」と尋ねたときだった。

苦し気にさえ見えた占い師の表情に驚き、
「こんなに歳が離れていて子どもまでいる相手でも
結婚してうまくやっていけるでしょうか?」と尋ねると、
占い師の目元に笑みが戻った。

それから占い師は、穏やかな表情のままただじっと、私の話に耳を傾けた。

そして最後に、「私はどうしたらいいのでしょう?」と尋ねると、
落ち着いた声でただ一言、「思うままにしてよし」と言った。

それは、勇気を持った私の未来を肯定するような厳かな声だった。

彼女が実は英語もフランス語も堪能な才女だと知ったのは、
プロポーズして海外勤務への同行を求めた後だった。

2年も付き合っていても、まだ見せていない面を持っている彼女に驚き、
益々惹かれたことは言うまでもない。

今、こうして、重要な海外拠点の支社長を務めることができているのも、
妻の協力があったからだ。

人生を変えた決断を促したあの一言が、
今では私の座右の銘になっている。

「思うままにしてよし」

『座右の銘』は、『思うままにしてよし』のスピンオフ作品です。合わせてお読みいただくと、よりお楽しみいただけます。