突然の電話は、実家の母からの涙声。
「夕美ちゃん、お父さんが……」
父が脳梗塞で倒れた。
病院に駆けつけると、白く乾いた唇の父がベッドの上で眠っていた。
山歩きが好きで、若々しい体が自慢だった父がいつもより二回り小さく見えた。
仕事を引退してからも、気力や体力が衰えることはなく、
趣味の山歩きや旅行を楽しみ、ますます元気になっているように見えた父。
そんな父が倒れることなど想像もできなかったのだろう母は、
主治医が話す父の病状を、怯えたうさぎのような目で聞いた。
命に別状はなく、このまま寝たきりということはないとわかった。
けれど、病状は決してよいものではなく、半身に麻痺が残る可能性が高いという。
固く目を閉じた父に向かって、心の中で呼びかけた。
もうすぐお父さんの好きな山菜摘みのシーズンよ!
こんなところで眠っていたら、わらびがみんな葉になってしまう。
山歩きの好きな父は、春になるとたくさんの山菜を取ってきてくれた。
その夜の食卓には、わらびのお浸し、ふきのとうの天麩羅、
ぜんまいの煮付けと、たくさんの“春の味”が並んだ。
子供の頃は、葉っぱの料理ばかりとがっかりしたものだったが、
この年齢になってみると、新鮮な山菜がどれほど贅沢な旬の味覚なのかがわかる。
「お父さん、今年もわらびのお浸し食べたいよ……」
あの青くほろ苦い味が思い出されて、急に涙が溢れた。
父の容態が落ち着いていることがわかると、
私は書置きだけを残して飛び出してきた自宅に戻った。
心配していた夫に様子を話しながら、自分がとても疲れていることに気付いた。
翌日、病室を訪ね、ベッドの上に座っている父を見て愕然とした。
左半身がだらりと下に垂れ下がり、口元までもがだらしなく弛んでいる。
ぼんやりと遠くを見ているような目は、ちゃんと見えていないようにさえ思えた。
私のよく知っている溌剌とした父は、もうどこにもいなかった。
傍らでりんごを小さく刻んでいた母が、目を上げ、
「お父さん、半身付随になっちゃったの。
しばらくは軽い記憶障害や、言語障害も残るそうよ」
と静かに告げた。
昨夜はどれくらい泣いたのだろう?
母の目はすっかり腫れぼったくなっていた。
それでも、母の表情には、何かを決心した女性だけが持つ毅然とした強さが漲っていて、
昨日おろおろしていた女性とは別人のようだった。
「夕美ちゃんにも家庭があるし、いろいろ忙しいとは思うけれど、
できるだけ、お父さんに会いに来てあげてちょうだいね」
母は小さく小さく切ったりんごをフォークで突き刺し、
父の歪んだ口元に運びながら、私の目を見ないで言った。
あれから半月、私は週3回この病室に来ている。
正直に言うと、それは父を思う気持ちからというより、
家族としての義務感からだった。
自宅から父の入院する病院までは、車で片道一時間あまり。
遠くて行けない距離ではないが、頻繁に行き来するにはやはり大変だと感じる距離だ。
病室に入ると、ベッドの上に父の姿が無かった。
入浴の時間にでも当ってしまったかと、しばらく待ってみることにした。
傍らの椅子に腰掛けると、サイドテーブルに、
父の時計が置いてあるのに気付いた。
時計の針は止まっていた。
そういえば、この時計は自動巻きだったっけ。
腕から外して置きっ放しになっていたから、針が止まってしまったのだろう。
時計に手を伸ばそうとした時、看護婦さんが入ってきて、
父がリハビリ室にいることを教えてくれた。
リハビリ室と書かれた部屋の扉は開けられたままになっていて、
広い室内を見渡すことができた。
目で父を探すと、光が差し込む窓際のテーブルについて、
あずき粒の入った浅い箱の中に手を入れている。
近づいて覗き込むと、麻痺している左手の訓練をしているところだった。
よほど集中しているのだろう、父は私がいることにも気付かない。
どうやら、あずきを掴もうとしているらしいが、その手は殆ど動いていない。
父は長い時間をかけても、指先をほんの少しだけ動かして、
わずかにあずきを転がすのがせいいっぱいだった。
苦渋が浮かぶ父の顔を見かねた療法士さんが、
父の手を取ってマッサージを始めた時、私はようやくほっと息をついた。
深い山に芽吹く山菜を、事もなく採っていた父が、
今は、あずき粒を掴むことさえできないなんて。
また涙が溢れそうになった。
「おとうさん!」
振り返って微かに微笑んだ父の額には、汗がびっしりとにじんでいた。
父がこんなに頑張っているのに、お見舞いに来ることを
ほんの少しでも面倒だと感じた自分を、とても恥ずかしく思った。
私はふいにあの時計のことを思い出し、病室に向った。
サイドテーブルで止まっていたあの時計は父のお気に入りで、
「防水も利いているし、文字盤が見やすくていいんだ」
と言って、山に行く時にはいつも腕にはめていたものだ。
急いで正確な時刻に合わせると、もう一度リハビリ室に向った。
「おとうさん、この時計をはめて!お父さんが気に入っていた時計よ。
ちゃんと腕にはめていないと、針が止まってしまうもの」
だらりと垂れ下がっている父の左手に時計をはめて、
微笑んでみせようとしたのに、なぜか涙が一筋こぼれてしまった。
父の時計が正確に時を刻めるようになるまで、
毎日でもここへ来て、私が時計のねじをまこう!
そう決心した夕美の顔には、母と同じ毅然とした美しさが宿っていた。