日差しがジリジリと照りつける7月の午後、人生を変える出来事が起きた。
昨夜からずっと、哲学のレポートと格闘していた私は、
最後の1行を書き終えると、冷蔵庫に直行して、
とっておきのハーゲンダッツアイスクリームを取り出した。
期間限定フレーバーの白桃ラズベリー味だ。
レポートが完成したら、食べようと決めていたのだ。
蓋を開けると、ラズベリー色の曲線が美しい濃厚なミルク色のアイスクリームが冷気を放つ。
スプーンを手にして、さあ!と構えたその瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
こんなタイミングで訪ねてくるなんてどこのバカよ?
少し苛立ちながらインターホンに出ると、相手はアパートの大家さん。
すぐに済むだろうとスプーンを置いて、玄関のドアを開けたが、
大家さんの話は想定外に長かった。
部屋に戻ってカップの中の、ピンクの液体を見た時の気持ちを、ちょっと想像してみてほしい。
ひとり暮らしの学生にとって、1コ248円のアイスクリームはものすごく贅沢な食べ物なのに……。
大きなため息が思わず口から洩れたとき、
体が宙に浮くような感覚がして、一瞬周りが真っ白になった。
ガクンと落ちるような衝撃とともに周りの景色が戻ってくると、
私はレポートの最後の一行を、書き終えるところだった。
え??まさか?!
冷蔵庫を開けて確かめると、ハーゲンダッツアイスクリームは、
まだちゃんとそこにあった。
その後いろいろ実験して、ある大きさ以上のため息が、
時間を巻き戻す引き金だと分かった。
今ではもう、いつでも自由に時間を巻き戻すことができる。
とはいっても、戻せる時間は15分程度だが。
それでもこの能力のおかげで、ちょっとした失敗はすべてなかったことにできた。
失敗してもなかったことにできると思うと、
それまではできなかった大胆な行動が取れるようになる。
大講義室で手をあげて、気難しい教授に質問したり、
ハイブランドの路面店で、高額な服を試着したり、
片思いしていた先輩に、思い切って告白したり……。
嫌な顔をされたり笑われたりしたら、すぐに時間を戻せばいい。
そんな安心感に背中を押されて、いくつもの事柄にトライしたが、
意外にもその多くは、思った以上にうまくいった。
時々は失敗して、嫌な顔をされたり笑われたりすることもあったけれど、
「もう一度やりなおせばいい」と思えば、何ということもなかった。
そして、これまでの自分は、小さな失敗を必要以上に恐れていたことに気がついた。
最初のうちこそ、失敗する度に、時を戻していたけれど、
そのうちいちいち時を戻すのが面倒になってきた。
だって、考えてみれば、殆どの事柄は、わざわざ時を戻さなくても、
やり直すことができるから。
陽射しもすっかり和らいで、涼しい風が吹き始めた9月の午後、
あの日から彼氏になった先輩が、いつものように部屋に来た。
「はい、お土産」と言って彼が差しだしたコンビニの袋には、
大好きなハーゲンダッツアイスクリームが2つ入っている。
そのひとつを手にとって、目を見張っている私に、彼が自慢げに言った。
「それ、どこの店でも品切れだった、期間限定のフレーバー、
白桃ラズベリーだよ 」
ああ、私を変えた今年の夏は、この白桃ラズベリーから始まったのだ!
感慨深い気持ちで蓋を開けたその瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
こんなタイミングで訪ねてくるなんてどこの……
苦笑しながら出たインターフォンからは、何と、母の声がした。
「お母さんよ、連絡してないけど来ちゃったわ、
あんた、夏休みにも帰って来ないんだもの、心配になっちゃって……
ちゃんとご飯食べてるの?」
誰?と目で訊ねる彼に、実家の母が来たことを伝えると、
彼は慌てて居住まいを正した。
とりあえずドアを開けて、玄関で母を足止めして彼のことを説明した。
なんとか説明を終えて、母を部屋に通すと、
正座をして待っていた彼が、礼儀正しく挨拶してくれた。
母の目がパッと輝くのを見て、一安心したそのとき、
テーブルの白桃ラズベリーが、ピンクの液体になっているのが見えた。
けれど、もう、ため息で時間を戻したりはしない。
彼と母は、何だか楽しそうに話しているし、
白桃ラズベリーはもう食べられなくても、
次に出る美味しいフレーバーを食べることはできるのだから。