映画『鳩の撃退法』を観て、予告編の「この男の書いた小説は現実になる」というキャッチコピーにちょっと違和感を持った方はいらっしゃいませんか?

実は、私も、1度目を観終えたとき、予告編のキャッチコピーってちょっと違わない?と感じていました。

だって、津田の書いたことが現実になったのではなく、現実の出来事を津田が小説にしたように思えたから。

でも、公式ページの本通り裏で皆さんの考察を読んでから2回目を観て、自分の考察もまとめた後、さらに3回目を観て、あの予告のキャッチコピーは本当だった!と気づきました。

それでは、早速、3回観てわかった考察結論を一気に書いていきます。

考察① 津田伸一が書いた小説は、どこまでホントだと考えるか?

「幸地秀吉一家が3人そろって車で逃げた」こと以外全て、ほぼホント。 もちろん、津田自身が直接見聞きしていない事柄は、見えている現実をつなぎ合わせて推測で書いた創作です。

でも、これが、ほぼ現実を当ててしまっていました。さすがは天才小説家!

厳密に全てその通りとまではいかないものの、かなりヤバいレベルで推測が当たってしまっていました。ラスト近く、バーでの津田とママの会話、津田と鳥飼の会話がその裏付けです。

つまり、小説に登場する人物も皆実在し、多少の誇張や脚色はあるものの、図らずも現実に近い内容を小説に書いてしまった。ということです。

ですから、「この男の書いた小説は現実になる」というキャッチコピーにも、結果的に、確かに! と膝を打つことになります。

考察② 津田伸一はなぜタイトルを『鳩の撃退法』とつけたのか?

それは、現実をほぼ当ててしまった小説の結末をあえて変えることで、「鳩=ニセ札(とニセ札にまつわるトラブル)」を遠ざけられるから。

津田は、タイトルを決めるまで、まだ、結末を決定していません。(原稿の状態でなくPC画面で鳥飼に読ませているため)

けれど、そこに秀吉から『ピーターパン』の本が届いて、追いかけて行った先で秀吉と倉田が一緒にいるところを見て、現実を悟り、小説の結末を決めるのです。

秀吉一家が、3人揃って逃げおおせるハッピーエンドにしようと。

これで、小説の中でだけでも秀吉の願いを叶えると同時に、本通り裏と一家失踪事件との関わりを消します。

残り2枚のニセ札=つがいの鳩は、既に倉田の手に戻っているため、警察が追う失踪事件との関わりさえ書かなければ、小説は全てフィクションと言い切れるでしょう。

つまり、結末を変えることで小説の内容全てをフィクションに見せ、ニセ札(とニセ札にまつわるトラブル)を撃退できます。

そんな小説のタイトルだから『鳩の撃退法』です。

このタイトルを決めたときの津田は、少し涙ぐんだ目で笑ってるんですよね。

その表情が、自分の保身のためだけでなく秀吉に贈るハッピーエンドを決意したことを感じさせます。

考察③ なぜ、最後に幸地秀吉は倉田健次郎と一緒にいたのか?

これはもう間違いなく、晴山と奈々美がダム底に沈められ、茜を引き取ることも許されなかったからです。

普通の家族の暮らしを夢見て、妻を妊娠させた男の命乞いまでして家族を守ろうとしたけれど、それは許されなかったということでしょう。

秀吉はこれからも、倉田と共に裏社会で生きていくしかないという、切ない現実。

秀吉の表情からそれを悟った津田は、せめて小説の中でだけでも秀吉に家族を守らせてやりたかったに違いありません。

さて、最後は、思い切って考えてみた、ワンチャン有り得る大胆考察です。

それは、「鳥飼が自分の目で見たもの以外全て津田の書いたフィクション」という考察。

現実なのは、バーと富山で鳥飼が実際に見たものだけ。

つまり小説家津田、鳥飼、バーのママ、沼本、女優クラブの社長は実在し、床屋まえだクリーンセンターもあります。

ただし、まえだには会っていませんし、沼本から受け取ったメモリーカードの中身も確認していません。

ですから、これらの登場人物は実在しているものの、それらの人物とのエピソードは創作です。

津田は、幸地秀吉一家のことを、新聞で知っただけ。

ニセ札事件は実際にあったかもしれませんが、津田とは無関係。

その他、富山で登場する人物については、実在していたかどうかに関わらず、エピソードは全て創作。

倉田役の豊川悦司さんも考察しているように、登場人物は皆、「津田に勝手にキャラクターとして使用された市井の人々」です。

そして、バーに領収書を届けた慈善事業家と、『ピーターパン』の本を届けた幸地(らしき人物)は、津田の仕込みです。(←大胆考察ポイント笑)

では、どうしてそんな仕込みまでして、ノンフィクションを装ったのか? というと、鳥飼の編集者魂に火をつけ、出版社に力を入れさせて小説の話題性を高め、3年ぶりの新作小説をヒットさせるためです。

だって津田は、かつて直木賞まで受賞した作家ですから。

しかも、前作で、書いてはいけない現実を書いて問題にもなっています。

文壇から忘れられてしまっている津田が再び華々しく登場するのには、やはり話題性が必要でしょう。

ラストシーンで、津田が見ている秀吉と倉田も、もちろん小説の中の情景で、現実は、そこに停まっている車をそれっぽく凝視する姿を鳥飼に見せていたにすぎません。

因みに、津田が小説のタイトルを『鳩の撃退法』としたのは、鳥飼が「ニセ札=鳩」と考えたから。もちろん、津田が小説に様々なエピソードを入れてそう考えるよう仕向けたのですが。

自分の思いつきがタイトルになったら、鳥飼はこの小説への思い入れをさらに強めるに違いありません。

つまり、映画を観ている私たちは、鳥飼と一緒に津田の小説を読まされていた。ということです。

人間は、わかり切っていることよりも、わかりそうでわからないことの方に強く興味を惹かれるそうです。

どこまでが現実でどこからが創作かわからない、これは本当にフィクション?と考えさせられる小説に鳥飼は夢中になります。

3年ぶりの小説を発表しようという津田にとって、こんなに都合の良いことはありません。

そして、私も、鳥飼同様、津田のたくらみにまんまと乗せられて、3回も映画館に行ってしまいました。(笑)

かなり大胆な考察ですが、こんな考察だってできてしまうんですよね。

『鳩の撃退法』は、本当に、”物語の終止符はあなたが決める”映画ですね。