このまま時が止まってしまえばいいのに……
心からそう思った瞬間、本当に時が止まった。
私は、愛する人の腕の中にいた。
彼は優秀なエンジニア。
誰もが知っている優良企業でその能力を買われ、飛びぬけた報酬をもらっている。
彼にしかできそうにない仕事はたくさんあるらしく、他社からの引き抜き交渉も後を絶たない。
彼は美しくて精密なものをこよなく愛していて、家具から食器に至るまで、まるで美術品のように美しいものを、惜しげもなく使っていた。
彼の家に初めて遊びに行った時、「江戸時代中期のものだよ」と言って、古伊万里の皿に料理を盛って出してくれた。
オランダ船を描いたその緻密な絵柄は、素人目に見ても高価なものであることがわかり、箸を持つ手が少し震えた。
食後のコーヒーを煎れてくれたのは、雑誌でしか見たことのない、ロイヤルコペンハーゲンのフローラダニカで、
もしも割ってしまったら……と心配しながら飲んだコーヒーの味などまるでわからなかったことを覚えている。
優秀で、優しくて、美しいものをさらりと使いこなす彼。
そんな彼が、どうして私のことなど気に入ってくれたのかがまるでわからず、何度も不安にさいなまれ、平凡な自分を呪った。
けれど、今日、彼は私を抱きしめて、「一緒に暮らそう」と言ってくれた。</font />
このまま時が止まってしまえばいいのに……
心からそう思った瞬間、本当に時が止まった。
ふと気付くと、私は、金色の森に迷い込んでいた。
見渡す限り柔らかな光が満ちている。
ここは、どこ?
遠くの方から聞こえてきた羽音に目をやると、二羽の美しい鳥が大きく羽を広げていた。
まるでダイヤモンドをちりばめたような、透き通った光が体を覆い、金色の森の中で白く浮き上がって見えた。
どこかで、見たことのあるよな気のする風景は、自分の置かれている異常な状況さえも、忘れてしまいそうなほど美しくて、うっとりと見惚れていたくなる。
彼もここに連れて来てあげたら、どんなに喜ぶだろう……
「ねえ、返事をしてくれないの?」
彼の声に、我に返った。
私は、彼の腕の中にいた。
時は、止まってはいなかった。
彼は背中に回していた手をほどき、その暖かい手のひらで、私の頬を両側から包み、少し上を向かせて目を覗き込んだ。
そして、優しい声でもう一度言った。
「返事をしてくれないの?」
「えっと…… よ、よろこんで。」
そう答えるのがやっとだった。
彼は嬉しそうに微笑み、頬からはずした暖かな手で、私の手を強く握った。
つないだ彼の左手に目をやると、そこには、さっき私が迷い込んだ金色の森があった。
どこかで見たことがあったと思っていたその風景は、彼が気に入っている時計の、文字盤の中のものだった。
金とダイヤの鳥がデザインされた、オーディマ・ピゲの美しい時計。
時が止まった錯覚は、これからはじまる、美しいものに囲まれた未来を暗示していたのかもしれない。
彼に似合う女性になりたい!
心も体も美しくなって、古伊万里よりも、ロイヤルコペンハーゲンよりも、オーディマ・ピゲよりも彼に愛してもらえるように……
そう強く決心し、暖かい手を力をこめて握り返した。
彼の隣に並んで歩きはじめた街は、薄い絹を纏ったように、柔らかな紫色に染まりはじめていた。