彼女が現れたことは、入り口に背を向けている私にも解った。
彼女が入ってくるといつも、部屋の雰囲気がパッと華やかになるから。
この絵画教室は、生徒の都合が良い時間にやって来て、
先生の指導を受けながら、それぞれが好きな作品を仕上げられるのが魅力だった。
生徒の年齢層は幅広く、皆が同じ作品に取り組む必要がないので、すぐに他人と自分を比べてしまう私にとっても、楽な気持ちで通うことができた。
彼女が入会してくるまでは。
私は筆を動かす手を止めて、彼女を振り返った。
緩やかなウエーブの髪が、バレッタで一つにまとめられて、白いうなじで波打っている。
しなやかな腕には細い金のブレスレットが光り、器用そうな長い指先は、控え目な色のマニキュアで彩られていた。
すれ違うと甘い花の香りが微かに残った。
絵筆を握る彼女こそが、一枚の絵のようだと思う。
私は今日も、キャンパスに向う振りをしながら、彼女の髪型や服装、立ち居振る舞いまでの全てをじっくりと観察した。
彼女をこんなふうに目で追うようになったのは、あの雨の日の出来事があったから。
その日は、夕方から急に強い雨が降り出した。
帰りそびれて教室で雨宿りする生徒たちに、先生が珈琲を煎れてくれた。
「えーっ!美紗子さんってお子さんもいるんですか?」
「ぜんぜんそんなふうに見えなーい!」
この春中学校を卒業したばかりの女の子は、舌足らずな喋り方で驚いている。
「ありがとう、でも、私、あなたのお母さんの年齢に近いんじゃないかしら?」
微笑みながら答える彼女は、全く生活感のない美しさで、とても子持ちの主婦には見えなかった。
「いやあ、美人の年齢はわからないもんですなぁ。はっはっ」
年配の男性は、あからさまに彼女を褒めた。
先生は、そんなやり取りを穏やかな表情で聞きながら、皆にカップを配っている。
そして、私には、カップに小さなメモを添えて差し出した。
19時半。いつものところで。
走り書きされたメモの文字は、デートの誘いだった。
他の生徒にはもちろん内緒だが、先生は私の恋人だった。
もっとも、先生には奥様もお子さんもいるから、今はまだ、不倫ということになる。
けれど、彼と奥様の間はすでに冷え切っており、離婚の話し合いが進んでいるということだった。
珈琲を飲んでいるうちに、雨が小降りになってきたので、みな席を立ち始めた。
私も鞄を持って立ち上がると、カップをトレイに戻して部屋を出た。
早く、先生と二人きりになりたい。
その時はまだ、彼女だけが珈琲を飲み終えていないことも、さほど気にしていなかった。
待ち合わせの店に着くと、店に続く通りがよく見渡せる窓際に席をとり、先生が来るのを待った。
浮き浮きとした気分で眺めている外の道を先生が遠くから歩いてくるのが見えた。
けれど、先生のさしている傘の中には、彼女……美紗子さんが入っていた。
二人はなにやら親密そうに話しながら、店のひとつ手前の路地を曲がった。
どうして?
見てはいけないものを見てしまったような気分になり、心臓がドキドキとした。
その時から、私の意識は常に彼女に向けられるようになった。
そして、先生は約束の時間に30分ほど遅れてやってきた。
遅刻を謝る先生に、彼女と歩いていた理由を問いただすことが出来ず、その日はいつも通りにデートを終えた。
けれども頭の中は、傘の影に見えた彼女の美しい横顔で一杯だった。
彼女は、女の私から見ても魅力的な女性だ。
先生は、華やかで美しい彼女に惹かれてしまったのかもしれない。
このまま振られてしまったらどうしよう?
そんな心配が首をもたげ、あれこれと思い悩んでいるうちに、自分も彼女のようになって、もっと先生に愛されたいと考えるようになった。
私はまず、髪に緩やかなパーマをかけた。
真っ黒だったストレートヘアーにウエーブがつき、明るめの栗色に染めると、それだけで華やかさが増した気がした。
彼女の髪型、メイク、マニキュア、香水と、次々に真似ていくと、その度に自分の魅力も増していくように感じた。
はじめは、彼女を真似て教室に行っても、
すぐに気付いて驚いたのは先生だけだったけれど、一ヶ月ほどたった今では、私の変身が教室でちょっとした噂になっていた。
それでも、そのことについて直接私に尋ねてくる人は誰もいなかった。
私がどんなに真似をしても、当の彼女はいっこうに気にしていない様子で、むしろ、私が真似をすることを好ましく思っているとでもいったふうに、にこやかに絵筆を取っていた。
3ヶ月もすると、私は頭の天辺からつま先まで、彼女と寸分違わぬ姿を真似られるようになっており、彼女の持ち物も皆、同じ店で買い揃えていた。
たったひとつ、「結婚指輪」だけを除いて。
私は最後のひとつ、「結婚指輪」が欲しくて欲しくてたまらなかった。
そんなある日、いつもにも増して華やかな雰囲気で現れた彼女は、突然、皆に教室をやめることになったと告げ、
部屋に置いてあった画材をまとめ始めた。
先生に向って、お世話になりましたと挨拶をした後、私のところにやってきて、小さな箱を差し出した。
「これ、あなたに差し上げるわ」
晴れやかな微笑みを残し、彼女は部屋を出て行った。
私は、彼女の突然の退会に戸惑い、その日は筆が進まなかった。
生徒が皆帰ってしまうのを待って、彼女のくれた箱を開いた。
そこに納まっていたのは、彼女の薬指に輝いていた、あの金色の指輪だった。
……なぜ?
指輪の意味を理解できず、立ち尽くしていると、先生が近づいてきて、驚くようなことを告げた。
「美紗子は、僕の妻だった人だ。昨日ようやく離婚が成立したんだ」
声も出ないほどの驚きで凍り付いている私に、先生は言葉を続けた。
「僕達、もう、終わりにしよう。
彼女をそっくり真似ている君と、これ以上付き合っていく自信がないんだ。」
こみ上げてくるさまざまな感情も涙も、自分でもコントロールすることができず、ただ、じっと先生の顔を見詰めた。
「真っ直ぐな黒髪の、飾らない君が好きだったよ」
後悔で押しつぶされそうになっても、どうすることもできなかった。
がっくりとうなだれると、緩やかなウエーブの髪が胸元で揺れ、こぼれ落ちた大粒の涙が、マニキュアの指先を濡らした。