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ショートストーリー, ベリーショートストーリー

ああ、どうしよう? 時間が足りない。

俺は難解な問題に取り組みながら、左腕の時計を確認した。

あと3分…… いや、せめて2分……。

平静を装ってチェックしながら、服の中にはじっとりと嫌な汗をかいていた。

タイムリミットが迫っていた。

心臓がバクバク鳴っている。
隣に音が聞こえないかと心配になった。

その時、奥の椅子で何か読んでいた彼女が顔をあげて時計を見た。

もうダメだ、“終了”を告げられる!

と思ったその時、やっと会計が済んで店の外に出ることができた。

まさか、ここに妻がいるなんて。

こんな店に女連れでいるところを嫉妬深い妻に見つかったら、
夫婦生活は終了だし、女には妻がいることを教えていない。

会計の遅い店員にはイラついたが、
とにかく、間にあって良かった……。

Happyの予感, ショートストーリー, バレンタインデー, 恋するキモチ

「私が20代の頃は……」

無意識のうちにそんなフレーズが出るのは、歳をとった証拠だと分かっている。
それなのに、ふと気づくとまた、そんなことを考えていた。

その頃、世の中はバブル景気に沸いていて、
名門女子大の学生だった私たちは、ずいぶんちやほやされたものだ。

電話一本で迎えに来てくれる男友達や食事を奢ってくれる男友達がいるのは当然で、
ゴルフをやってみたいと言ったら、ゴルフセット一式をプレゼントしてくれた男友達までいた。

でも、それは、私が特別だったわけじゃなく、単にそういう時代だったから。

それに引き替え、今はなんて……

視線を投げた机の上には、若い男とのツーショット写真。

半年前から付き合っている一回り年下の彼は、
2年前に大学を出て、就職できないままフリーターをしている。

当然、私を迎えにくる車もなければ、食事に連れて行ってくれるお金もない。

まして、ゴルフなんて、この先一生行けないかもしれない。

それでも、惚れた弱み、年上の哀しさで、私は電車で彼のアパートに通い、
毎晩夕食を作って、バイトから戻る彼を待っている。

今日は2月14日。
世の中はバレンタインデーで、私にとってはバースデイ。

20年前の今頃は、都内のホテルのスイートルームで、
恋人とザッハトルテを食べながら、モエ・エ・シャンドンを飲んでたっけ。

窓から見下ろした夜景が、本当に綺麗だった。
今となっては夢のようにスイートな思い出だ。

彼はここのところ毎日帰りが遅いし、週末も休んでいない。

今夜も遅くなるのだろうか?

「先輩が怪我をしたから、代わりにシフトに入ってるんだよ」
そう言っていたけれど、本当かどうかわからない。

「私が20代の頃は……」なんていう話ばかりする年増の女は、
もうすぐ振られるのかもしれない。

なんだか悲しくなってきて、涙がこぼれそうになったとき、
玄関のドアが勢いよく開いた。

「待たせてごめんな! 一緒に行きたいところがあるんだ」

靴を脱ぎながらそう言うと、急いで私に支度させ、
手を引いて表に出ると、待っていたタクシーに乗せた。

彼とタクシーに乗るなんて、初めてのことだ。

「どこへ行くの?」と訊いても、「着いたらわかるよ」と答える彼は、
昨夜もロクに寝ていないはずなのに、なぜか、とても楽しげだ。

タクシーが着いた場所はあまりにも意外なところで、
私は彼に促されるまま、次の乗り物に乗った。

3分後、私たちは、東京の夜景を見下ろしていた。

「何とかっていうホテルのスイートルームより高いところから
東京の夜景を見せたかったんだ」

彼が毎日深夜まで、休みも取らずに働いていたのは、
私をここに連れてくるためだったのだ。

私は彼にあげるために用意していた包みを開いて、
3つ入ったチョコレートの1つを取って彼に渡した

チョコとチョコで乾杯をして、ふたり同時に口に入れると
チョコレートの甘みと洋酒の香りが口の中に広がった。

最後のひとつを口にくわえて彼の方に差し出すと、
反対側からパクリとかじって、とろけ出る洋酒をこぼさないように
唇をしっかり合わせたままで、甘い舌を絡めあった。

明日からはまたボロアパートで、彼の帰りを待つことになるだろう。
でも、もう、昔を懐かしんだりしない。

だって、今ふたりで見ているこの夜景が、
これまでで最高にスイートな思い出になったのだから。

ショートストーリー, 怖い話

ラベンダーの香りのする湯船に浸かって、浮腫んだ足をマッサージしていると、
細く開けたバスルームの窓から、踏み切りを通過する電車の音が聞こえてきた。

沙代子は、もう十数分もすれば帰宅するであろう夫の顔を思い浮かべた。

沙代子の住むマンションは、電車の駅から徒歩5分の場所にある。
共働きのため、広さよりも利便性を優先した選択は間違っていなかったと思う。

いつも忙しい夫は、最終電車で帰ってくることが多く、沙代子はよくバスルームで夫を迎えた。

沙代子の名を呼びながら、ただいまよりも先にバスルームのドアを開ける夫は、
シャンプーをしている後姿が無防備で色っぽいなどと毎回沙代子をからかった。

泡だらけの髪にシャワーをあて、沙代子が目をつむったまま「お帰り」と言うと、
夫はようやくドアを閉めた。

沙代子がシャンプーを終えて、バスルームから出ようとする時、
ちょうど服を脱ぎ終えた夫が、沙代子をもう一度バスルームに押し戻すことも少なくなかった。

新婚というには無理がある年月を一緒に暮らしていた沙代子たちだったが、
子供がなく共働きのせいか、いつまでも恋人同士のような雰囲気があった。

バスルームで聞く踏切の音は、いつしか夫の帰宅を告げる時報のようになっていたので、
それを聞き逃さないように、沙代子はいつも窓を少しだけ開けて入浴するようにしていた。

今夜も沙代子が窓を細く開けて入浴していると、踏み切りの音が聞こえてきた。

いつものようにシャンプーを始めた頃、背後に人の気配を感じ、沙代子と呼ぶ声が聞こえた。

あっ……!!

沙代子は夫が何か軽口を叩くのを待っていたが、今夜の夫は珍しく何も言わない。

仕方がないのでお帰りと言おうとした時、夫がわっと泣き出した。

夫の泣き声に目を開けた沙代子は、自分が夫と自分を上から見下ろしていることに気づいた。

……!

あの時、シャンプーをしている沙代子の背後にいたのは、
ドアを開けた夫ではなく、窓から侵入した見知らぬ男だったのだ。

2階だからと安心して窓を開けていた沙代子の浴室を、
いつも窺っていた男がいたことに、沙代子は気づいていなかった。

無防備な姿のまま犠牲になってしまった沙代子を抱いて、
いつまでも泣き続ける夫を、沙代子はぼんやりと見下ろすことしかできなかった。

***********

「ねえ、あなた、ここに決めましょう!」

「そうだな、この立地条件なら中古でも悪くないな」

「最寄の私鉄駅は去年から高架上になりまして、
踏み切りによる渋滞もありませんので、お車での通勤でも大丈夫です。
お客様、こんなお値打ちな物件、他には絶対にありませんよ。
是非、お決めになってください」

「よし、ここに決めよう」

「ありがとうございます!それではさっそくこちらでお手続きを……」

***********

「あら?」

新居で過ごす最初の夜、令子が湯船に浸かりながら、夜風を入れようと浴室のルーバーを開けると、
どこからともなく踏み切りの鳴る音が聞こえてきた。

気にせずシャンプーを始めたが、音はまだ続いていた。

「ねえ、あなた!」

令子は気になって夫をバスルームに呼んだが、夫は、
「気のせいだろう、この近くには踏み切りなんてないからね」と軽く受け流し、
「それより、お前、シャンプーしている後ろ姿がなんだか色っぽいな」と令子をからかった。

「やあねぇ」と照れながらも、令子はまんざらでもなかった。

そんな二人を、じっと窺っている目があることに、二人は気づいていなかった。

シャワーの音と二人の話し声にかき消されてはいたが、
浴室にはまだ小さく踏み切りの音が鳴り続けていた。

ショートストーリー, 秘密

白い便箋の文字を見詰めてたまま、希代子は身じろぎも出来ずに立ち尽くしていた。

長い年月を飛び越えて、忘れていたはずの日々が蘇ってくる。
心の奥に仕舞いこんで、鍵をかけてあったはずの記憶が……。

浩太と私は同じ土地で生まれ育った幼馴染だった。
いつも辺りが暗くなるまで、一緒に山や川を駆け回って遊んでいた。

二人がお互いを異性として意識し始めたのは、いつの頃からだったろう?
手をつなぐだけで幸せなとても幼い恋だった。

そんな時間がいつまでも続き、いずれ浩太のお嫁さんになることを、希代子は信じて疑わなかった。
中学を卒業したあの日、浩太が東京に行くと言い出すまでは。

希代子が、自分の周りにあって手の届く幸せだけを見詰めていた頃、
浩太は希代子への恋心と同時に、将来への大きな夢を持ち始めていた。

祖父が連れていってくれた映画を見たのがきっかけだった。

祖父好みの時代劇が、浩太にとって特別面白かったわけではないが、
スクリーンに映し出された主役俳優の圧倒的な存在感には、すっかり目を奪われてしまった。
なんて堂々としていて、男らしく格好いいのだろう。
浩太は自分があの俳優のように、堂々と剣を構え、
この大きなスクリーンいっぱいに映し出されることを想像した。

ふと芽生えた憧れは、日を追うごとに大きく膨らみ、
卒業を迎える頃にはしっかりとした意思となって、浩太の気持ちに根付いていた。
俺は東京に行って俳優になる、と。

それまで希代子に言い出せなかった東京行きを、この日、ようやく切り出した浩太は、
呆然とする希代子に、初めて、まるで大人のような台詞を言った。

「愛してる」

冷たい水が喉を潤し、胃に落ちて染み渡っていくように、
浩太の言葉が、希代子の心に染み込んでいった。
体の芯がじんとして、何かが溢れてくるようだった。

「私もよ」

涙がこぼれてしまいそうで、ぎゅっと目を閉じたまま浩太に抱きついた。

浩太の不器用な指が、希代子の顔をそっと持ち上げ、自分の唇を静かに重ねた。
初めてのキスの味は、とうとう流れだしてしまった涙で、ほんの少ししょっぱかった。

そして、間もなく、浩太は東京に出た。

頻繁にやり取りしていた手紙も、浩太の名前がラジオで聞かれるようになり始め、
少し大人びた顔が雑誌に載るようになった頃から、だんだんと減っていった。

そんなある日、久しぶりに届いた長い手紙には、浩太が始めて主役を得て、
かつてスクリーンで見た大物俳優と共演することが決まったという、喜びの声が綴られていた。

浩太はそのお祝いと記念に、これまで貯めたお金を全部使って、
その大物俳優がしているのと同じ、高級な時計を買ったのだという。

希代子はそこに書かれている聞いたこともないメーカー名とその金額を見て、
浩太がもはや自分とは全く違う世界で暮らしていることを痛感した。

浩太からの手紙はめっきり減っていたが、簡単な近況を知らせる短い手紙がなくなることはなかった。

希代子はその短い手紙に、何倍もの長さの返事を書き、どんどんと忙しくなる浩太の体を気遣った。

田舎にまですっかり普及したカラーテレビで、浩太の姿をよく見るようになると、
希代子はますます浩太と自分が離れていくのを感じた。

けれど、それとは裏腹に、浩太を想う気持ちは強くなっていった。

高等学校を卒業し、働き始めた希代子のことを、デートに誘おうとする男性は多かったが、
希代子はどの男性とも二人だけでは出かけなかった。

けれど浩太は、何人もの綺麗な女優との恋を、噂されるようになっていった。

そして、とうとう、浩太からの手紙が届かなくなった。

それから1年が過ぎて、希代子が現実を受け入れる覚悟をし始めた頃、
浩太と噂があった女優が、二人の婚約を発表した。

希代子は、これまでやり取りしたたくさんの手紙をみんな処分して、
一番熱心に誘い続けていた男性と、初めて二人だけで出かけた。

あれから二十年以上が過ぎた。

優しい夫にも、可愛い子供達にも恵まれた。
希代子は自分の人生に、何の不満も持っていない。

だから、突然届いた手紙に困惑した。

手紙の差出人は、浩太の妻だった。

すでに大物と呼ばれるようになっていた浩太が、
半年前に突然の病気であっけなくこの世を去ったことは希代子も知っていた。

強い悲しみが消えるまでしばらく時間はかかったが、
夫と子供に悟られないよう、普通の生活を維持していた。

それなのに……。

手紙には、浩太の妻が、かつて自分の取った行動を詫びる文章があった。

一緒に届いた小包には、浩太がいつか手紙に書いていた、あの高級時計が入っていた。

この時計にふさわしい役者になるのだと、
がむしゃらに努力していた浩太の、若い笑顔が思い出された。

彼女は、当時恋人と噂され、事実同棲に近い形で暮らしていた浩太が、
国の恋人に宛てて書いていた手紙を、密かに捨てていたのだと告白して詫びた。

そのおかげで自分達は結婚することが出来たし、夫もその生活に満足していたと思っていたけれど、
突然倒れた浩太が病院に運ばれ、朦朧とした意識の中で最後に呟いた言葉に、
自分のしたことの重大さを思い知らされたのだという。

浩太が小さく呟いた名前が、傍にいる妻でも子でもない、「きよこ」という名前だったから。

希代子は堪らなくなって、大きな声をあげて泣いた。
体中の水分がなくなってしまうかもしれないと思われるほど、たくさんの涙を流した。

そして、ひとしきり泣き終えると、ゆっくりと立ち上がった。

優しい恋人として、良き夫として、頼もしい父親として、
彼は自分自身の人生においても、最高の演技をしようとしていたのかもしれない。

そして、そうであるならば、大切なラストシーンで、
その演技を台無しにするようなことがあってはいけない。

希代子は真新しい便箋を取り出して、浩太の妻に宛てて、丁寧に文字を綴り始めた。

自分への気遣いのお礼、今の幸せな家庭の状況、そして、ひとつの嘘、
……いえ、女優になったつもりで語る、浩太と共演するドラマのラストシーンの大切な台詞を。

ご主人が臨終の際で呼ばれたというお名前、「きよこ」は確かに私の名と同じですが、
私達がお付き合いしていた遠い昔、彼はいつも私のことを「きよちゃん」と呼んでいて、
私は、ただの一度も、「きよこ」という名前で呼ばれたことはありません。

希代子は彼の人生が刻まれた腕時計を一度だけ腕にはめて、その重みをかみ締めながら、
この時計もやはり、悲しみに沈んでいるであろう妻の元に送り返そうと考えていた。

ショートストーリー, 未来は……

「昔は良かったな……」

ふと出た自分の言葉に驚く。

おやじのそんな口癖を嫌っていたのは20代の頃だったか。

それにしても、大変な時代になったものだと思う。

もしもおやじが生きていたら、今の世の中をどう思うだろう?

おやじがあの世に行った後、急速に発展した予防医療は、
この世から死に至る病を消した。

今や病気で死ぬ人間などいない。

そして、昔からは考えられないほど高い水準に達した安全技術で、
昔起きていたような事故も全く起こらなくなった。

試行錯誤されて成熟した社会制度は、歳をとっても変わらず働ける世の中を作りあげた。

かつて心配されていた、食糧危機も、土地不足も、核問題も、
知恵と努力で乗り切った人間は、人類が長く熱望していたユートピアを作り上げた
……かのように思われた。

しかし、自然の地ではない場所で、計算し尽くされた食事を摂り、
危険の全くない暮らしをすることが、果たして本当に幸せか?

そんな疑問が頭をよぎるのは、俺が、まだ病気も事故も心配事もあって、
天然食糧を食べていた時代を知っている最後の世代だからかもしれない。

おやじに会いたいな、と思いながら、
若い頃に食べた焼肉とはまったく別物のヤキニクを食べていると、
友人から3Dメッセージが届いた。

「食事時に申し訳ないが、真っ先にお前に伝えたくて……」

紅潮した顔で話し出した友人のバーチャルイメージが、
ようやく金が溜まったので病院に行けるのだと言った。

「本当か?!」

俺は思わず聞きかえした。

「ああ、明日、行ってくるよ。
先に行って待ってるからお前も早く来いよ!」

「分かった。早く続けるよう頑張るよ!」

笑顔で手を振る友人を見送って、俺はため息をついた。

やっぱり、昔は良かったな。
誰の人生にも、終わりが自然にやってきたのだから。

今や人生の終焉は、金で買う時代になり、
死ぬためには大金を貯めて病院に行かなくてはならない。

先週174歳になった俺は、明日も早朝から仕事に出かける。

一日も早く金を貯めて、おやじの所に行けるように……。

ショートストーリー, 恋するキモチ

「はやくおいで……」

彼が呼びかけたような気がしたのは、発車のベルの中で聞いた空耳。

照りつける日差しと、まとわり着くような湿気が苦手で、私は夏が嫌いだった。
あの日、彼と出会うまでは。

ありふれた表現だけれど、日に焼けた浅黒い肌に、真っ白な歯が輝いていて、
にこりと笑ったときに出来る、目じりの細かい皺までが、一瞬で好きになった。

あっさりと恋に落ちた、とてつもなく蒸し暑い夏の日。

「好きです」と思わず口走ってしまったのは、
陽炎が立ち昇るくらい高かった空気の温度に、くらくらしていたからだと思うけれど、
「僕もだよ」と答えてくれた彼の言葉が、空耳じゃないと気付くまでに、
ずいぶん時間がかかったことは、今でもはっきり覚えている。

新幹線が動き始める。
一秒一秒、彼の笑顔に近づいていく。

快適な車内の温度に、窓の外の夏が息をひそめる。

攻撃的な強さの日差しだけが、負けるものかと差し込むけれど、
今の私は、ぜんぜん平気。

また彼と一緒に過ごす、熱い夏が好きになったから。

ショートストーリー, バレンタインデー, 怖い話, 秘密

※このストーリーは、『チョコレートケーキ』と合わせてお読みいただくとよりお楽しみいただけます。

8年前、3か月後に結婚式を控えた若い女性がマンションの部屋で絞殺された。

殺したのは、女性の婚約者と付き合っていた27歳の女だった。

女は殺した女性の耳を切り落とし、
それを入れたチョコレートケーキを焼いて、男に食べさせようとした。

男の通報で警官が駆け付けたとき、
女はケーキの刺さったフォークを持ってへらへらと笑い
部屋には溶けたチョコレートの甘い香りが漂っていた。

検察は女に懲役9年を求刑したが、
裁判では女が心神耗弱と判断されて5年の実刑判決が下りた。

********

「ありがとうございました!」

バレンタインデーが近づくと、店は益々忙しくなる。

彼女は駅前のケーキ店で働いている。

特性チョコレートケーキが人気の店で、この時期は行列が絶えない。

彼女は1日の仕事を終えると、駅ビルで買い物をして、
急いで家に帰り夕食の支度をする。

「ただいま」

夕食が出来上がるのを見計らったように、玄関のドアが開いて声がした。

彼女が去年の秋から一緒に暮らしている慎一だ。

「いい匂いだね」

「今日は寒かったからシチューにしたわ」

彼が脱いだコートをハンガーにかけながら、
彼女は、幸せがこみ上げてくるのを感じていた。

シチューを美味しそうに食べる彼を見ていると、
彼女は辛かったことも苦しかったことも、全て忘れられるような気がする。

3年前、彼女は眠る時間を削ってなりふり構わず働いていた。
お金になる仕事なら、人には言えないようなことだってした。

貯まったお金で整形と豊胸の手術をして、ボイストレーニングを受け、
ウォーキングレッスンやマナー教室にも通った。

依頼してあった探偵から待ち焦がれていた報告が届いたのは、
ようやく準備が整った頃のこと。

そのあと駅前のケーキ店で働き始め、偶然を装って彼と出会った。

見た目から立ち居振る舞いまで、彼の好みは熟知していたから、
親密な関係になるまでに、たいして時間はかからなかった。

ずいぶん遠回りをしたけれど、これで良かったのだと思う。

彼と一緒に暮らせるのなら、昔の自分なんて捨ててしまって構わない。

けれど…… 

皮肉なことに、彼女は毎日チョコレートケーキを売っている。

あの女の耳を思い出さずにはいられない、
甘い香りのするチョコレートケーキを。


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。

ショートストーリー, 切ない記憶

「お母さん、元気だった?」

振り返った母が驚いた顔をする。

「あれ、まぁ、来るんならそう言ってくれれば
美味しいものでも用意したのに」

「そう言うんじゃないかと思って、わざと連絡しないできたの。
ほら、今年はお正月にも来られなかったでしょ、
お母さんの顔が見たくなっちゃって」

「奈々子も一緒かい?」

「ううん、奈々子はお友達のところ。
遠くてなかなか来られないし、彼女も会いたい人がいっぱいいるみたい」

「そうかい……」

「そんな露骨に残念な顔しないでよ、
かわいい娘がこうして遊びに来てるんだから充分でしょう?」

ふざけてすねた真似をして見せると、母は慌てて笑顔を作った。

「お前が来てくれれば充分だよ。
そうだ、珈琲、飲むかい?
この前父さんが良い豆を買ってきてくれたんだ」

「うん、飲む!そういえば、お父さんは?」

「さっきちょうど買い物に出ちゃったんだよ、
お前が来るって分かってたら、待ってたのに……」

「いいわよ、たまには女ふたり水入らずも悪くないわ」

「あっちはどうだい?寂しくないかい?」

「そうね……まだ慣れないこともあるけど、思ったよりいい感じよ、
お母さんこそ、膝の痛みはどう?ここのところ寒いから心配で……」

「大丈夫だよ、父さんが毎日マッサージしてくれるんだ」

「そう、よかった。お父さん、優しくなったわね」

あんなに頑固でいつも威張っていたお父さんが、
母の足をマッサージするようになったなんて驚きだが、
老夫婦が仲良くやっていてくれることはありがたい。

遠く離れてしまった私では、母の役に立てないのだから。

「あ!お母さん、これ、買ってくれたの?」

本棚に私の本があるのを見つけて、思わず声が弾む。

「ちゃんと読んだよ、ずいぶん時間がかかっちゃったけどねぇ」

昔から本なんか読まなかった母は、
目が悪くなってから新聞のチラシさえ見ないようになった。

そんな母が、活字ばかりの分厚い本を読んでくれていたなんて。

「当たり前じゃないか、お前の書いた本なんだから、他の本とは違うよ。
お父さんなんて、50冊も買って、知り合いに配ってたんだから」

そんなことしてくれたんだ、知らなかった。
思わず涙が出そうになる。

「でも、もう新しい本は出せないんだねぇ」

母がポツリと言った。

「そんな顔しないで!1冊出せただけでも幸せよ!
それに、ほら、けっこう売れてるし、これで……」

そこで思わず言葉に詰まった。

そうだ、この原稿をコンクールに出したのは、
賞金を娘の奈々子に残すためだった。

そして、もしも、出版された本が売れて少しでも印税が入れば、
それも奈々子のものになる、そう思って必死で仕上げた作品だった。

それなに、あんな事故が……。

「あ、もうこんな時間、お母さん、私、そろそろ行くわ」

「もう行くのかい?もう少ししたら父さんも帰ってくるのに」

「ごめんね、ゆっくりしていられなくて……」

「私もそっちに行こうかなぁ?」

「何言ってるのよ、そんなの絶対にダメよ!お父さんが悲しむわ」

「そうだよねぇ、父さんをひとりにはできないよねぇ……」

「お母さん、お父さんのことお願いね!私には奈々子もいてくれるから」

「また……またいつか来るね。珈琲、美味しかったわ、ご馳走さま!」

私は、振り返らずに母から離れた。

******

「母さん、帰ったよ」

寛は自分でドアの鍵を開けて中に入ると、
今度は、内側からしっかりと鍵をかけた。

妻がひとりで外に出ていってしまわないように。

「母さん、ただいま」

妻の傍まできて、もう一度声をかける。

「あぁ、お帰りなさい。今ね、あの子が来てたの」

「そうかい、あの子は元気だったかい?」

「とても元気そうだったよ、あっちの生活も悪くないって」

「奈々子も来たのか?」

「いいえ、あの子だけ。珈琲を煎れてあげたら、美味しかったって」

「そうかい、良い豆を買っておいて良かったな」

妻の座る迎い側には、珈琲の入ったカップが置いてあった。

「母さん、もう少し暖かくなったら、
ふたりであの子たちのお参りに行ってやろうな」


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。

ショートストーリー, ベリーショートストーリー

「ねえ、パパ、あれどうなっちゃったの?」

神様の子供は、荒れ果てた地球を指差して言った。

「ああ、お前が寝ている間に全部壊れちゃったんだ」

神様は面倒臭そうに行った。

「あんなにいろんなものがあったのに、全部なくなっちゃったの?」

神様の子供は驚いて目を見張った。

「そうだよ。自分達が作った爆弾で全部吹っ飛ばしてしまったんだ」

「全部?」

「そう、全部」

「えー?僕、地球の観察日記つけてたのに、あんなになっちゃったら困るよ」

「仕方ないだろう、パパがやったわけじゃない。他の星の観察に変えればいいじゃないか」

「やだよ。地球がいいんだ。ねえパパ、地球の時間を少し戻してよ」

「人間はバカだからそんなことしたってまた同じことをすると思うんだけど……
しかたないなあ、お前がそこまで言うんなら、一度だけ戻してやるか」

「わーい!これで、観察が続けられるぞ」

神様が時間を蒔き戻して、地球がまた緑になるのを見ると、子供は嬉しそうにはしゃいだ。

ところが……。

それからしばらくしたある日、子供が、また、神様に地球の時間を蒔き戻して欲しいと言いにきた。

「ダメだよ、一度だけ、って言っただろう。
それに、別に壊れてもいないし、人間も生きてるじゃないか」

「だってえ、この前せっかくパパが緑に戻してくれたのに、今度は腐ってきちゃったんだ。ほら!」

子供は浮かない顔で、地球の変色した部分を指差した。

「だから時間なんて蒔き戻してもしかたないって…… ふぁーあ」

神様は、あくびをしながら、変色した地球を面倒臭そうに見やった。


このショートストーリーは、大阪の時計店【ウオッチコレ】メールマガジン『ブリリアントタイム』に掲載されています。

ショートストーリー, ベリーショートストーリー

窓の外の良く晴れた空を見ながら、同じ歳の男女3人が語り合っている。

「良く晴れてますなぁ」

「本当に、青い空ですね」

「夏がやってきましたな」

「こんな空を見ていると、“あの頃”を思い出しますなぁ。
あの頃は、本当に忙しかった!」

痩せぎすの男性は、優秀な営業マンとして、
真夏の陽射しの中で外回りをしていた頃を思い出しながら言った。

「そうそう、“あの頃”は本当に忙しかったわ!
でも、今思えば一番充実していたのかもしれません」

色白のふくよかな女性は、2人の子どもを年子で生んで、
育児と家事に追われていた頃を思い出しながら、相槌を打った。

「確かに充実していたよなあ、“あの頃”は。
毎日が希望に輝いていたと言ってもいい」

体格の大きな男性は、大学生をしながら、
予備校講師のアルバイトをしていた頃のことを思い出していた。

予備校きっての人気講師で、学生には不相応なほどの給料を貰い、
かわいい女の子と片っ端からデートしていた。

「“あの頃”は本当に良かった」

3人の男女は、それぞれの思い描く“あの頃”が
全く違った時期であることなど気にも留めずに声を揃えて言った。

そこへ、髪を束ねた若い女性がやってきて、彼らに声をかけた。

「あの頃も良かったと思いますけれど、今だって悪くありませんよ。
ほら、今日のメニューは皆さんのお好きなぶりの照り焼きです」

「ぶりは柔らかくて美味しいんだよなぁ」

「照り焼きは甘いから好きなのよね」

「魚は骨があるから食べさせてくれるんじゃろう?」

3人の男女は、食事が配膳されたテーブルに向き直り、
目の前にあるブリを見た。

“あの頃”のことなど、もうすっかり忘れている。

それでも、食事が終わって暇になればまた、
“あの頃”を思い出し、“あの頃”の話に花を咲かせる。

もう何年も、そんな風に過ごしているのだ。

彼らが口にする“あの頃”は、長すぎるほどの人生の中では、
ほんのわずかな時間でしかない。

それでも、そのわずかな時間の“あの頃”が、彼らに生きる力を与えている。